見出し画像

分類その10「倒叙推理小説」

倒叙ものというと、有名なところは「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」など映像作品が挙げられるが、これらはほぼ全て一人称として犯人の目線で語られてはいない。
そういう意味で私はこれらを純粋な倒叙ものと位置づける事に抵抗がある。推理小説の歴史を考えた場合、創始者はクロフツだと考えるのが妥当だろう。

私としては、完全犯罪を実現する為、主人公が苦心惨憺する話が本当の倒叙ものだと考えている。この場合、あくまでも物語の目線は犯人の一人称として進められなければならない。
古くはポオの「黒猫」のような告白の形を取る。
問題となってくるのは、それらがミステリとして成立しうるか?なのだが、近年の作家は、ミステリとしての歴史の中でそれを難なく可能にした。
ミステリ要素はいくらでも付加できるものだ。

東野圭吾著「容疑者Xの献身」は、残念ながら映像化の段階でミステリである事を放棄してしまったと思える。
もともとのテレビシリーズが名探偵ガリレオの推理を主眼とした短編だったのに対して、この長編では東野圭吾氏独特の人間ドラマが丁寧に描かれているため、ミステリの要素が映像化の際にゴッソリと抜け落ちてしまったのだ。
テレビのガリレオを観て、映画館に行った人は、さぞガッカリだった事だろうと思う。それはガリレオでなくても良い物語だからだ。
一方、この小説を犯人目線の作品として捉えたらどうだろうか?そこには倒叙ものとしての犯人の「献身」が浮かび上がる筈である。

当然読者にとっては、犯人探しの愉しみを奪われる事になる倒叙ものなのだが、逆に言えば、倒叙ものである事が隠されていれば、アクロイド殺しなどの叙述ミステリにも成り得るわけであり、実は自分が犯人だと思い込み、犯行も詳細に記述されていたとしても、真犯人は別に居たりする事もできる。
まだまだ色々と、ミステリの新境地を試すことの多いジャンルなのだとも言えるのだ。

今回まで6回にわたり、小説の形式的分類をしてきたが、思い返してみると、読者が読書を始めるにあたって、先入観としては、小説の形式的な分類が邪魔な事も多いと感じる。

創元推理文庫のジャンル表記マーク

例えば創元推理文庫では背表紙に上記のようなマークがあしらわれている。
私は子供の頃、このマークに幾度となく騙された。事実、このマークは私にとって何の指標にもならなかったのである。
それぞれの作家が、自らこれらのマークに相当する作品を書き上げたわけではないからだ。これらは、創元社の誰だかが、独断と偏見に基づいて分類した結果に過ぎない。
例えば、アガサ・クリスティの作品は「おじさんマーク」と「猫マーク」に渡っていた(時計マークもあったかも知れない)。発表当時の読者は、フェアかアンフェアかを知らない。フェア/アンフェアで物議を醸したクリスティにとっては、後に日本の出版社がこのようなマークを勝手につけていた事について、どんな感慨を持っていたのだろうか?
それは知るすべもない。


2023.3.25


是非サポートしてください。私も興味・関心のある事や人物には果敢にサポートして行きたいと思っています。