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『ペンキ』(4) 人探し,レジェンド探偵の調査ファイル(全5回)

3 後半

 私は無駄を承知で周囲を一軒ずつ聞いて回り、アパート二軒については家主に面談し、特に詳細を述べて聞いた。しかし、そのような氏名の者はいないと言う。
 当該番地を何度も歩いたが発見できず、(また一から出直しだな)と、諦めて帰ろうとしたが、もう一度、古びたアパートに回ってみた。そして何気なく階段の上を見て、(あれは何だろう?)と思った。
 先刻、家主の夫人にさんざん聞いて、「武田さんも、小夜子さんという人もいません」と、私のあまりのしつこさにうんざりされたアパートである。
 東京大学医科学研究所の裏手に位置する、簡素な住宅地。比較的生活レベルが高そうな家が並ぶ中で、その建物は、まだこんなアパートがあるのかと驚くほど粗末なものだった。
 木造二階建て、と言えば聞こえがいいが、トタン葺きの屋根に古材の板で囲ったような外観。二階に上がる階段は、ところどころ板が抜け落ち、鉄製の手すりは錆びついている。
 私の目にとまった部屋は、その階段を上り詰めてすぐのところで、ベニヤ板のドアが形ばかり付いていた。
 そのドアに、何やら白いものが見えたのだ。私は何だろうと思い、ギッギッと音のする階段を上って、それを確認した。
 私はその白いものを見て、それが何であるかを知り、一坪もない踊り場に茫然と立ちすくんだ。
 ドアには、あの会長の姓を示す「原」という一文字の漢字が、白いペンキで書かれていた。白いペンキの字は決して達筆ではない、たどたどしく稚拙ともいえる字だった。
 何か切なく、やり場のない思い。心が震えるような複雑な感情に襲われた。
 まぎれもなくここが小夜子さんの住まいであることを知った私は、まるで悪いことでもしたかのように、逃げるようにしてその場を立ち去った。
 帰路、車を運転しながら、久しぶりに胸の高まりを覚え、同時に何の脈略もなく、昔読んだ、松本清張の「遠くからの声」という小説を思い出していた。
 詳しくは覚えていないが、遠く離れている主人公の腹違いの妹の声なき声が聞こえる、といった内容ではなかったかと思う。幼い頃から離れ離れになった、ただひとりの肉親である妹が、不幸な生活に沈んでいる。主人公の妹を思う心のなせるワザなのか、彼女の「お兄ちゃん、助けて!」というメッセージを感じ取る主人公……。そんな物語だったと記憶している。あるいは私の解釈が違っているかもしれないが、この本を読んで強く共鳴した思い出があった。
 翌日、事務所に出た私は、露木と小田に小夜子さんの行動を見張るよう指示した。
 余計なことだった。通常、このような所在調査の場合、マルヒの居所が判明すれば、仕事はそれで終了する。しかし、私の気持ちはそうせざるを得なかった。
 どちらかと言うとサービス精神の旺盛な私だが、今回はそんな安っぽい感情でなかった。もちろん、会長に対する追従でもない。強いて言えば、自分自身のためであり、何かを確認したいがためであった。
 とにかく、私の事務所は、小夜子さんに対する行動調査を数日間行った。
 その結果、小夜子さんは住民票に記載されてあったとおり、十年ほど前から同所で生活しており、引っ越してきた当時は職業を持っていた。しかし、いまでは全く仕事はしておらず、国の生活保護を受け、ひっそりと暮らしている。
 外出もほとんどしないが、どこかで拾ってきたという子犬の散歩に、一日二回、近所を散歩している。そのほか、これといった病気もせず、おおむね健康を維持していること、外部からの訪問者は皆無であることなどが分かった。
 露木たちは、私が指示したとおり、小夜子さんの顔写真を撮り、犬と散歩する様子をビデオに収め、朝夕二回の散歩経路を詳細に書いた報告書を作って持ってきた。私はこの時初めて小夜子さんの写真をしみじみ見た。当然ながら、三十数年前の若さはなく、ほっそりした体型も小太りとなり、着ているものも粗末なせいか、暮らしにつかれた老女の顔が写っていた。
 私は報告書を丹念に読みながら、彼女のこれまでの人生に思いを馳せた。
 実家のある郷里は島根県の外れにあって、いまでも人口数千人の、何の特徴もないひなびた田舎町である。それでも造り酒屋を営む武田家は素封家で、小夜子さんが生まれたころは商売もそれなりに繁盛し、何不自由なく、高校までの十八年間を過ごしている。
 状況直後の様子はわからないが、初めからホステスを目指した訳ではあるまい。恐らく特別な事情でネオン街に身を沈めたのであろう。しかし、そこで、まだ若かった会長と出会った。
 そして、二年ちょっと一緒に暮らし、やがて犬猫みたいに捨てられ、流浪の果てが今の生活である。
 国の庇護を受け、肩身の狭い思いで日々暮らし、どこにも出かけず、誰も訪ねてこない。ただ、物言わぬ、拾ってきた子犬との侘しい生活である。
「子犬に何か話しかけながら笑ったりすることもあるんですが、その笑顔だけ見ていると、結構上品そうで、いい所の奥様のように見えるんです。もちろん、服を見ると、貧乏そうな老婆ですけどね」
 露木は私にこんな風に話しながら、三日間の行動調査の報告書を写真と一緒に渡した。

(5)につづく

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