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趣味として「洋書を読む」


大学生の頃に洋書を読むようになってかれこれ5年以上経つように思うが、最初に始めたのはもちろん英語学習の一貫としてだった。

教養科目として取らされる英語の授業以上に勉強する気になったのは単純に暇だったことに加え、同じ学科にスゴイ奴がいたからだった。そのスゴイ奴は帰国子女でもないのに大学入学後の間もないTOEICで800点超えを叩き出し、2年後くらいにしか習わない量子力学のテキスト(英語)を片手にガリガリ計算していた。大学でたまに出会う、頭の回転速度が常人より速い天才タイプだった。

近くに自分より秀でた人間がいると対抗心が湧くし、色々とアドバイスももらえる。そのアドバイスの中に「洋書を読む」も含まれていた。

それから月日が経ち社会人になると英語を使う機会もほとんどなく、勉強する必要性もなくなった。留学から帰るとTOEICも900の大台に乗ったし、MBA系の海外大学院に入学するためにめちゃくちゃ高いTOEFLやIELTSのスコアを取る予定も今のところない。

それでも洋書を読み続けているのは、せっかく伸ばした能力を劣化させたくない、というのもあるが純粋に楽しいからだ。


学習からの解放

言語学習の最終目標とは、その言語を「媒体」にして何かを為すことではないだろうか。誰かと議論したり、情報を得たり。外国語の上達という意識はそこにはない。その言語圏にしか存在しない事物にアクセスできるようになれば、それは母国語という壁を破って自分の世界を拡張したということになるのではないか。

洋書にも同じ構図が当てはまる。最初は児童書や多読向けの要約版から始まるが、その辺りはまだ学習の延長線上に位置していると感じていた。そうした有名どころは日本語で読むことができるし、そっちの方が時間もかからず内容もよく理解できる。

本当に面白くなってきたのは、自分が読みたい分野の本で、かつまだ翻訳されていない本を読む時だ。この国は翻訳大国と言われてはいるものの、すべての本が翻訳される訳ではなく、翻訳されるとしても1年前後は待たなければならない。子供の頃はイギリスでハリーポッターの新刊が出たと聞いても指を咥えて翻訳版を待っているしかなかったが、今は本の存在さえ知ることができればAmazonかBookdepositoryで買えばすぐ読める。そこには日本語では入手できない情報が目の前に広がっている。そして、ひょっとしたら周りの人はそんな本が存在していることすら知らないかもしれない。


されど学習は終わらない

ここまでさも辞書なしでスラスラ読めるかのように書いてしまったが、実情とは程遠い。知らない単語は一冊の中で山のように出てくるから、全ては調べないまでも辞書は手放せない。"polyglot"(=数か国語に通じている人あるいは書物)という単語、知ってますか? 私は知りませんでした、ついさっき下のTED動画を見るまで。

この人は新しい言語を学ぶこと自体に喜びを見出すタイプなので、私とは少し方向が違うが、「楽しさこそ言語学習のモチベーション」という意見には全面的に同意できる。

私の場合でも、読み始めて間もない頃に、洋書中に出てきた単語を英→日で単語帳にまとめるという作業をやっていたが、苦行である上に数冊続けても一向に数が減る様子がないのでやめてしまった。

現在落ち着いた方法は、話の筋に関わるか、やたら頻出する単語だけ調べるようにして、後は読み飛ばしている。どうせ日本語でも100%完璧に読むということは不可能なのだから、80~90%くらい理解できれば良いと割り切っている。

外国語に触れるという行為におそらく正解はない。自分の好きな楽しいことをやっていて、気がついたら外国語を使えるようになっていた、というのが理想形なのかもしれない。


【追記】

どういった洋書を選べば良いか? という点についてまとめた次回記事はこちらから。


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