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受け継いだ本質を見るという視点

自分は結局のところ、親父から多大な影響を受けてきた。

親父は機械工学博士で、自動車のいろいろな装置の発明を行ってきた。それらのいくつもが、現在の自動車にもたくさん使われている。さらに、コンピューター黎明期にその開発に携わってきたこともあり、80半ばの今でも毎日PCをいじくっている。その歳にして、今でも自分なんかよりもPCに詳しいのだから驚かされる。

そんな親父には、独特のものの見方がある。バリバリの理系でありながら、ジャパニーズビジネスマンとして海外企業と渡り合ってきた経験からだろうか、いわゆる一般常識から視点が逸脱しているのだ。子どもながらにいつも不可思議なことを言う父親だと思ってきたが、今になると自分の中にその視点が引き継がれていることに気付かされる。

常に物事の本質を見る。

親父が、意図してか意図せずにか、その多くはなかった言葉で子どもへ残してくれたのだろう。今でも常にこのことは、自分が世界を見る上で極めて役に立っている。正月にどこかへ家族で旅行へ行ったとき、一度こんな話があった。

「年越しそばって何のために食べるの?」

「お蕎麦のように長く生きられるようにっていう縁起を担いでるのよ」と母。

「そうだなぁ、昔は年末になるとどの店も閉めてしまって、外食することができなかったんだろう。」と父。

「そこに目をつけたお蕎麦屋さんが『年越しそば』なんて名付けてお店を開けたんだろう。長生きなんていう縁起はあとからのこじつけで、お蕎麦屋さんの販売戦略なんだろう」って。

ふーん。子どもながらに、妙に納得がいってしまったのを今でも鮮明に覚えている。

親父の親父

僕が3歳の時、かすかな記憶がある。

それは祖父のお葬式の記憶。

「おじいちゃん」ではなく「祖父」。というのも、それまで一度も会ったことがなかったと思うのだ。

親父の親父は、有名な言語学者で多くの著書が残っている。フランスの言語学者ソシュールの「一般言語学講義」なんかがそれ。

もちろん3歳の時にはそんなことは知らず、ただただお葬式のぎこちない雰囲気だけが記憶の片隅に残っているだけ。

本がたくさんあるだけの祖父。だけども、そのせいか、逆にいろいろと知りたくもなる。言語学に触れたのは大学に入ってからだが、哲学を含めてがっつりはまった。

親父の親父の義兄弟

会ったことのない祖父の結婚相手、つまり祖母はさらに接点がなかった。祖父は3歳にお葬式という記憶があるが、祖母とはなにもなかった。

ただ、祖母の妹さんは太宰治と結婚。

そのため、小さいころから太宰治というキーワードはよく聞いた。

自分からみれば大叔父さんということらしい。

やはりこちらも本でしか知らないが、さんざん読み漁った。

父親から引き継いだ本質をみることの重要性と、父以前のファミリーの系譜をあまりに知らないことから、いろいろと触れることになった文学や哲学。これらが今、自分の中で唯一しっかりと息づいている。

今後このNOTEをつかって、たぶん支離滅裂なこともあるけど、自分が見てきた、感じた、思ったことを残していくことにしました。書くこと、出版すること、子どもたちが大きくなったとき、それを感じ取ってほしいので。



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