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白村江後の太宰府防衛の一角 古代山城 鞠智城 【出土した携帯サイズの百済仏によせて💕編】

こんにちは。今回は先日訪れた熊本県北部に位置する国史跡、鞠智(きくち)城跡の散策レポート2回目です!(1回目を読んで頂いた方は、内容が1部被る部分がありますがご容赦下さい。)【1/26一部編集しました🙇‍♀️】鞠智城の詳しい説明は、併設されている資料館『温故創生館』の展示パネルより引用させていただきます↓

鞠智城は7世紀後半、今から約1300年前に、大和朝廷によって築城された古代山城です。
この当時、朝鮮半島では、「高句麗(こうくり)」、「百済(くだら)」、「新羅(しらぎ)」の三国の争いに、中国の「唐」が加わり、社会的な緊張が続いていました。
 660年、唐と新羅の連合軍によって、日本と友好関係にあった百済が滅ぼされます。日本は百済の復興を支援するために援軍を送り込みますが、
663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗し、百済の救援に失敗しました。その結果、今度は唐と新羅による日本侵攻の脅威に、直接対処せざるを得ない情勢になります。
 そこで大和朝廷は、西日本を中心に防衛体制を形成します。九州では最前線基地として金田城(長崎県対馬)が築城され、太宰府を防衛するために大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県・福岡県)が築かれます。それらの背後に位置する鞠智城は、防衛施設であったと同時に、食料や武器などを前線へ供給するための兵站基地であったと考えられています。しかし、結果として、唐と新羅による日本への侵攻はありませんでした。
 鞠智城はその後、役所的な役割をもつ施設や、食料を貯蔵する施設などに変化し、10世紀半ばまで存続しました。

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鞠智城は百済の亡命貴族の指導で築かれたと考えられており、鞠智城跡からは、八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡、百済系銅像菩薩立像・木簡などの貴重な遺物が出土した貯水池跡、3箇所の城門跡、土塁跡などの遺構が検出されています❣️今回はその内、貯水池跡周辺を散策した様子と、併設資料館に展示されている池から出土した仏像(レプリカ)を中心にご紹介しつつ、当時の様子を妄想して楽しみたいと思います。宜しければお付き合いください🤗

今回の散策場所、貯水池跡と資料館を青丸で示しています。(小さくて見にくいですが💦)地図は資料館でいただいたパンフレット裏面を拝借。

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貯水池跡をご紹介する前に、鞠智城のシンボルタワー、八角形の『鼓楼』(復元)と、防人(さきもり)をイメージした鞠智城のゆるキャラ『ころう君』をご紹介させてください。

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八角形鼓楼(復元)は鞠智城内で最も高い建物で、三層造りの最上階に置いた太鼓を使って時を知らせたり、見張りをしたりしていたと考えられています。八角形建物跡は、韓国の二聖(イーソン)山城でも見つかっており、朝鮮半島と鞠智城の深い関わりを示すものと言われています。そして、ころう君、やっぱり可愛い💕パンフレットとかに載ってるころう君とちょっと雰囲気が違うな〜と思ったら、寅年のスペシャル仮装みたいでした🐯牙と耳とトラ模様が😆芸が細かい😆

では、早速、鼓楼の北側にある貴重な遺物が出土した貯水池跡をご紹介します✨

鼓楼側からの貯水池跡の眺め↓

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貯水池跡から鼓楼のある長者原エリア迄は下の写真のような石造の遺構が50mおきくらいに続いています。長者原エリアと池を繋ぐ水路が通っていたのでしょうね↓

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貯水池跡を北側から眺めたらこんな感じ↓

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この貯水池跡からは、木簡や百済系銅造菩薩立像、建築用材などの貴重な遺物が数多く見つかっているんですよ💡

ここからは、敷地内に併設する資料館『温故創生館』に移って、池から出土した百済系銅造菩薩立像(レプリカ)他、興味がそそられる展示物をご紹介したいと思います🤗

コチラが駐車場横にある立派な資料館『温故創生館』です↓

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そしてコチラが貯水池跡から出土した携帯サイズの百済の仏像です❣️(左がレプリカ、右が復元)

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横から見た図はこんな感じ↓

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この仏像は、7世紀後半の百済仏の特徴を持つことから百済で作られた可能性が高いそうです。このような百済系仏像は韓国でも10数体しか見つかっておらず、日本では初めての発見だそうですよ💡発掘した考古学者さん達、さぞかし興奮したでしょうね😆ちなみに私、この小さな仏像を始めて写真で見た時、大好きな奈良法隆寺の百済観音像に似てる❗️って思いました。背中から腰にかけてのS字カーブがそっくなんです。​法隆寺の百済観音はいつ誰か作ったかなど謎が多いんですが、同じ七世紀の百済のルーツを持つことは間違いなさそうですね🧐

百済観音 〜Wikipedia〜
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/百済観音

そして、この仏像の大きさは12.7cm、スマホと同じくらいの大きさです📱鞠智城はじめとする古代山城は、百済の亡命貴族の指導で築かれたと考えられていますので、パネル解説にあるように、きっと百済の貴族が、この地に持ってきたものじゃないかと思います。660年に百済が滅亡した後、何千人もの百済人が倭国(日本)に亡命してきたらしいんですけど、きっと百済の貴族も、取るものもとりあえず、この小さな仏像だけはと携帯して日本に渡ってきたのではないでしょうか。百済復興を試みた663年の白村江の戦いも失敗に終わり、祖国復興の悲願は完全に絶たれてしまってからの日本での山城建設なんですよね。二度と祖国には戻れないと分かりつつ、どんな思いで持参した百済仏に祈っていたんでしょうか。

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資料館には対戦国、新羅の王墓から出土した宝物のレプリカも展示されていました✨↓

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古代にこんなに精密な金細工ができる新羅って強敵ですよね。それもこれらは5〜6世紀のものだから、白村江戦の時代より100年以上も前のもの😵

ここで当時の新羅側の指導者、金春秋(後の武烈王)さんを紹介させて下さい。王族の金春秋は、百済滅亡の13年前に日本を訪問しているそうですが、この時の様子が、『日本書紀』には以下のように記載されています。

春秋は姿顔美(かおよ)くして善(この)みて談咲(ほたきこと)す。

春秋の容貌は秀麗で、巧みな話術と表情で人をひきつけると言った内容だそうです。眩しい方だと思いませんか✨因みに当時の新羅王は、聡明な善徳女王、そして生涯にわたって金春秋を支え続けた盟友、金庾信という人が傍に控えております。え?これって韓流ドラマになりそうだなって思いませんか?調べたらしっかり韓流ドラマになってました😆(ざっと調べただけでも韓流ドラマ名『善徳女王』、『大王の夢』、『ケベク』←これは百済側から描いたドラマ。)2代続いた女王の後、金春秋は新羅王(武烈王)となりますが、その子の文武王の時代に新羅は朝鮮半島の統一を果たします。(白村江戦の直前に武烈王は亡くなったため、白村江戦は文武王が指揮しました。)

それにしても、韓国といい、中国といい、この時代の歴史ドラマっていっぱい作られているのに、悲しいことに日本ではここら辺(古代〜奈良時代)の長編ドラマってなかなかないんですよね。多分、日本にはこの時代の資料が『日本書紀』くらいしか無くて、分からないことが多くてドラマ化できないんでしょうね😅

今回はなんだかまとまりが無い上に長々とした記事になってしまいました(ゴメンなさい🙇‍♀️)が、無理矢理まとめに入りたいと思います💡史跡系の観光スポットって、綺麗だな〜✨とか、映える〜🌈だけで訪れるのも、誰も行かなくて忘れ去られるよりは勿論いいのですが、事前に歴史背景を知った上で行くと、2倍も3倍も楽しめるんじゃないかと思いますよ❣️

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最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【引用・参考文献】
・遠山光都男「白村江-古代東アジア大戦の謎」(株)講談社 1997 
・倉本一宏「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」(株)講談社 2017 
【参考HP】
歴史公園鞠智城 温故創生館HP
https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/index.php


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