【全編ネタバレあり】『騙し絵の牙』はオタク(主語を小さくすると“僕”)が好きなものだらけ【鑑賞後の閲覧推奨】
『騙し絵の牙』を散歩ついでにふらっと観に行った。
好きなやつだった。なので、ルポを書きたい。
本当は読みやすい文章で本作品の魅力を余すところなく共有したい。
ただ、明日も仕事だから、雑文乱文で思いの丈を綴ることを許してほしい。
何しろ社会人一年目で、且つ本作品に登場するような有能ビジネスパーソン種でもないので……。
※ここから全編ネタバレ
まず、題名の通り、この作品にはオタクが好きなものが詰まってたよね!
・美女の心のヤバいやつ
・名前や作風が変わっても話題を攫える圧倒的な才能
・夢を諦めて実家を継ぐ役者崩れがひっそり世間を騙しきってた事実
・傀儡に見せかけて一番格が高い後継さん
などなど……ただ、今日は誌面の都合上、この物語のメインの構造にあたる
速水・高野ペアの“『弱者に見えて強者』系カタルシス”に絞って話します
騙し絵の牙が仕掛ける『実力偽装』の意図的な不完全性
大したことがなさそうに見えて、実はめちゃくちゃすごい奴だった……!
こんな展開はよくあるし、俺TUEEEEE効果が非常に高い演出だと思う。
例えば、ライトノベル作家の珪素氏が超世界転生エグゾドライブの中で描いている『実力偽装(Eランカー)』の表現が記号化されていて特に分かりやすい。
こういう“弱そうに見られているが実は最強なのだ!”という描写が、オタク(ぼくら)は大好きなのだ!
しかし、速水の“実力偽装”は決定的に破綻している。
CMとかで「このオトコ、ヤバすぎる!」という売り文句をやっているから、原理的に弱そうには見せられないのだ。
観客は、速水の計算高さや裏切りシーンが見たくて劇場に足を運ぶ。
だからこそ、速水の計算に真の意味でカタルシスを感じることはできない。
これは、ある種、商業映画の限界といっていい。
だから、ちゃんと“王を刺すジョーカー”のくだりは別で用意しているのだ!
若手の編集者高野恵が、これまで散々薫風社内でイニシアチブを取ってきた速水を出し抜く瞬間の(うわ、こいつ強いのか……!)という鳥肌感は、
まさしく僕らが(予告編の時点で)この映画に求めていたモノに他ならない。
この構造がまず全てに先立つ。
『主人公の計算高さによる痛快な逆転劇』という構造を
事前に宣伝に使いつつ、作品内で成立させる一手。
あまりに洗練されたスマートなやり口なので、
予想がつくベタな手口だと評価する人もいるかもしれないが、
僕は正直予想できていなかったし最高に気持ちよかったです。
そして、このオチが最高に素晴らしいのは、
単に観客の予想を裏切るトラップ展開というだけでなく、
速水・高野の価値観を浮き彫りにして人間ドラマとしての深みを生む
物語的にも非常に重要な展開として機能している点だ。
ここを深く説明するには、この物語の語り部・視点的な役割を担い、
最後には速水編集長を出し抜くもう一人の主人公、高野恵について、
その役割を三つに分解して説明する必要がある。
高野恵の役割①究極の愚者(ジョーカー)として
ここまででも再三記述していることだが、
僕らがこの作品に期待しているのは、愚者(ジョーカー)の活躍である。
『大泉洋の演じるとぼけた編集長が歴史ある大企業相手に大立ち回り』
これが見たいのだ。そして、この作品はきちんとその様子を描いてくれた。
そして、大泉演じる速水は、きちんとその役割を全うする。
張り巡らされた計略のレベルは高いし、シンプル且つ合理的で無駄がない。
リアリティがありつつ底知れなさも感じさせる、絶妙なバランスがそこにはあるのだ。
ただ、正直それだけだったら、僕の場合(広告に違わぬよくできた話だったな)で終わっていた。わざわざnote書こうとかは多分思わなかった。
この作品は、最終盤にもう一枚のジョーカーを切った。
僕はその切り方が非常に鮮やかだったと思うのだ。
ずっと主人公の速水に振り回され、飄々とした速水と対照的な実直さを見せる、若き編集者の高野。
本屋の娘で本に真っ直ぐ向き合う素直な人物で、駆け引きや計略とは無縁そうなこの作品のアイドル。
この高野恵という人物が、薫風社を丸ごと手玉に取って改革を進めた速水編集長を見事に出し抜いて、途轍もなく『面白い』ことを鮮やかにやってのける流れが、この作品の最も気持ちいいシーンになっている。
弱そうに見えないと強い描写が引き立たない。この問題を高野恵というキャラクターは見事にクリアしている。
常識人としてのツッコミロールと、文学好きのステレオタイプとして記号化されたかような言動。人によっては、ただの舞台装置として見ていてもおかしくない、百点満点の『実力偽装』だ。
こいつがまさか全部をかっさらうなんて……!という驚きを与えてくれる。
そして同時に、ここが面白いところだが、僕らはその裏切りに納得できる。
高野恵の役割②速水の鏡として
高野恵は、速水と通ずるモノのある人間として描かれる。
伝統や安定より“面白さ”を優先する価値観。
権威の二階堂に対して「面白くないところがある」と言える大胆さ。
編集者として確かな実力があり、人や作品を見る目が備わっている点。
その中で、高野に欠けているのは速水のような計算高さだ。
バカ真面目に行動して速水を呆れさせるような描写が、作中にも数点ある。
その様子を見て、僕ら観客は高野を“速水陣営の格落ちキャラ”として見る。
ただ、高野は速水のように“面白さ”のために無茶をやる発想がなかっただけで、その素養自体は元よりあったのだ。
思えば神座を探す際の集中力・洞察力なんか、実に人間離れしている。
速水とのビル屋上での会話が彼女を覚醒させたなら、そりゃ脅威にもなるだろう。だって元より速水と同じようなつくりの人間なんだもん。
速水が東松たちを手玉に撮ったように、速水も高野に横取りを受ける。
このフラクタルチックな構造が物語に深みを持たせているのは間違いないと思う。
……で、ここからが本題。
“速水のカガミ”であるところの高野の裏切りが、
速水自身のキャラの掘り下げにも寄与しているのではないか、という話だ。
高野の物語が速水の雑誌への情熱を間接的に証明する件
高野は速水が描く『面白い』未来に共感を示しつつも、本屋の娘としての経験や価値観から“店だからできる面白さ”を提案し、結果として速水からの勝利を手にする。
この構図は直前に速水が東松から取った勝利に重なる。
だからこそ、高野の葛藤や「本屋そのものに対する愛着」が、そのまま速水の「雑誌に対する愛情」にも重ねて捉えられる。個人的には、ここがこの映画のオチの最も巧みな部分だと思うのだ。
つまり何かというと『飄々とした真意の見えない人物としての速水が、作中で仕掛け屋として覚醒する高野恵の姿を通じて“内面には雑誌への実直な愛が溢れた編集者”という風に理解され得る』ということなのだ。
これはあくまでも僕が映画を観て得た感想だが、同意してくれる人も多いと思う。乱暴な意見だが言い切ってしまおう。基本的に、速水は『手練手管を学び切った高野』であり、高野は『ほぼプレーンな状態の速水』である。
高野恵の役割③主題に対する批評性/新価値観の象徴
高野自身が作中で言っている「旧い背景の作品であればこそ、批評性のある視点が必要だ」という点が、そのまま彼女の役割の三つ目になる。
前段で速水と高野は同じだと表現したが、実際には差異がいくつかある。
・速水にとっての面白さは“面白い人に書かせる”こと⇔高野にとっての面白さは“面白い作品を書かせる”こと
・速水は『雑誌(の面白さ)』を守ることにこだわる⇔高野は『本屋(の面白さ)』を守ることにこだわる
・速水は東松のKIBA構想という『ハード』をAmazon提携という『ソフト』で打ち負かす⇔高野は速水の電子書籍戦略という『グローバル』に実店舗での独占販売という『ローカル』で一矢報いる
このあたりのアンチテーゼ的な立場を高野が担うことで、作品を観た人は
「速水は偉そうなこと言ってるけど、正直電子書籍で世界に展開とか普通じゃない?」
といった批評を抱きにくくなる。結果、解釈・寸評がしやすくなるわけだ。
さらに、この速水 - 高野の継承構造こそが、本作品の表ボス、東松に対するフォローになっていることにも言及したい。
東松はKIBAプロジェクトにこだわっていたが、速水に「5年は長すぎたんですよ」と言われてしまい、敗北する。
ここだけ見ると、速水に比べて深みに欠ける人物になってしまうわけだが、
他ならぬ速水が高野によって『かませ』にされつつあるとなると、
東松も“攻めることを忘れただけの旧サラブレット”として格が上がる。
東松(★売上) - 速水(★雑誌) - 高野(★書店)
という三代の繋がりが見えてくることで、直接描かれていない東松や速水の過去にも、熱量や深みが透けてくる、非常に計算高いつくりなのだ。
物語のオチ、編集者対決
酔いが回りすぎて何がなんだか分からなくなってきた。
今や1時前という時間だし、明日からの仕事が怖くて原稿に集中できない。
早く終わらねば……ということで、この作品の最後に話を向けよう。
高野と神座が組んで出した『究極の紙の本≒文壇の天才の新作を限定高額販売』に対して、速水は城島と組んで『究極の配信コンテンツ≒アングラの鬼才の問題作を全世界配信』という企みで返そうとする。
このくだりは“面白いモノ”と“面白いヒト”という二人の価値観の違いや、
本屋だからできる施策と雑誌らしいコンテンツ性を重視する試みの対比など高野と速水の違いが見事に表現された対立構造だと思うのだが、
何よりも、二人に共通する“編集者としての才能・信念”が最後の最後で顕れる形になっているのがニクい。
『書かせるために生きている人間なんですよ』というフレーズは、恐らく方便ではなく真実だ。めちゃめちゃ面白いものを作りたいというのは間違いなく真意だ。
高野の文芸に対する熱情はひたすら真っ直ぐに描かれている。
対して速水の雑誌に対する熱量は目に見える形で描かれない。
だから、最後の最後で、高野に対抗するように打ち出される一手がアツい。
そんなわけで、この作品を解釈する上で最も大切なポイントは『どんくさく見える大泉洋が実はキレ者』という点でなく『ドライな合理主義者に見える大泉洋が実は泥臭いロマンチスト』な点だと思いました。
僕の結論はこの辺りです。
皆さんのご意見も、ぜひコメントでお聞かせください。
それでは。(僕は寝ます)
常に前よりダサい語りを心がけます。