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サードプレイスと空間

■閉じていく豊かさ。
気軽に出会える社交場が、今はネットワーク上にたくさん開かれています。色々なところに鍵を持っていて、開けて入れば簡単に顔を出していけるし、顔を伏せて偽りの名刺で自己紹介しないこともできる。どんどん名刺を増やしていくことで活動範囲や知り合いを増やし、画面上に拡がっていく充実感なんかは満たされていくのでしょう。世界がどんどん開かれていくと感じた時期もありました。それが楽しくて嬉しくて、過剰に執着して目が離せなくなり、手が鍵の束を探って今日はどの部屋に入ろうかと…

第3の場所は人によって、地域によって、ライフステージによって違います 。開かれすぎた画面上の付き合いを少し閉じて、近くにある現実の世界に身を寄せてみると、取り残されたような孤独感。はじめは落ち着かなかったけどだんだんと慣れてきます。自分にとって身を寄せられる場所が成熟された社会においてこそ、必要。それを ”閉じられた空間” と呼んでいいのかどうかわからないけど、誰ともつながらない時間や目の前の相手にだけコミットすることを生産性の薄い時間ととるか、自分に向かえる濃縮された時間だと感じられるか。

そういう多変性のある場所が、身の回りにたくさんあって欲しいと思います 。それはこれまでにあったものでも新しい何かを発見することでもいいのかもしれません。たとえば放課後の校庭とか家のガレージ、おしゃべりで集まる喫茶店や商店街、ブックカフェやバー、写真展のあるギャラリー、サッカーのグラウンドや通院する病院の待合室、図書館、車の中、森、ひとり…。開かれていくことで薄まっていく知覚に対し、閉じられることで凝縮されていく我が感度。サードプレイスで過ごす時間は、ひらきすぎた”じょうご”の口をすぼめて流入量を減らしていく作業に近い。それに耐えうる関係設計が進んでいくことで「閉じていく豊かさ」みたいなものが芽生えてくる。



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