デザインをしなくてもいい日の訪れ
その日、私は自分がデザインをしなくてもいいのだと気づいた。
私はとある案件で、ロゴの制作を依頼された。
短期間ではあったが、独自のリサーチと、クライアントへのヒアリングの末、方向性の資料をまとめた。
その資料を提案し、クライアントととの認識のズレも調整した。
ロゴの方向性の資料が完成した。
だが、お金と時間の関係で、結果的に制作するロゴの数や質が制限されている状態でのデザイン作業となった。
私が提案したロゴに対して、クライアントの反応はいまいちだった。
私はとくに落胆しなかった。
デザインは商売である以上、限界がある。
対価以上のことをしたら、残念ながらあまりお互い幸せになれない。
見た目を作るデザイナーの限界を感じた。
だが、私はそれと同時に、“資料”の可能性も感じた。
ロゴの方向性の資料は生き生きとしていた。
それさえあれば、誰にお願いしようと、
依頼した側も依頼された側も、お互いに認識合わせができるし、
ロゴを決定するときの指標にできるのだ。
案件から外されてしまってから数日後。
私は自ら見た目のデザインを作らなくても、デザインができるのだという、
私の“デザイナー”としての変化を感じた。
最後まで読んで頂きありがとうございます。頂いたサポートは私の癒やし担当、愛猫シャーロックの胃袋にしっかりおさめます!