ACTANTという社名の由来、込めた期待
ACTANT(アクタント)という会社をつくってから約二年半。その間ACTANTという社名の由来はなんなのか質問されることが多々ありました。学術的な用語を引用したものの、メンバー間でも意味の共有をそこまで明確にしてこなかったので、その都度モゴモゴとそれらしいことを答えてきました。そろそろまじめに整理しつつ、次回質問を受けた際はバシッと明確に、且つかっこよく返答するための準備をしておきたいと思います。
アクター・ネットワーク理論と日常生活
ACTANTという単語は、ブルーノ・ラトゥールという人類学者らが提唱したアクター・ネットワーク理論(以下、ANT)から拝借しています。ANTとは、ある社会集団や文化を分析する際、それを様々なアクターたちが構成するネットワークであるという観点から分析するための理論枠組みだと理解すればいいでしょう。ラトゥールはこの枠組みを基盤として、普段人類学が対象とするようないわゆる「未開の文化」ではなく、科学者が事実を見つけ出す実験室、つまり「自分たち側」の現代的事象を分析し、おもに科学技術社会論の分野で評価されてきた経緯があります。ですので、彼の文章そのものはなかなか理解し難い面もありますが、なにも遠い民族を知るための崇高な理論というわけではなく、隣で暮らしている人々の生活を自分なりに捉えて考察していくための道具になり得る、日常性、現在性の高い理論枠組みだと理解することも可能です。
では、ANTは通常のネットワーク論とどう違うでしょうか。この理論を細かく見ていくと、「トランスレーション」や「刻印」という、新しいデザイン手法の参考にもなりそうな面白い概念がたくさん登場するのですが、まずは社名に関わる基礎的な考え方のみ紹介しておきたいと思います。ANTの特徴は、あらゆるネットワークを常に揺れ動く動的な状態として捉える点にあります。アクター同士は独特の方法でお互いに影響を与えあっていて、社会的なネットワークそのものはアクターの行為やつながりがもとになって、常に生成されていくものとして分析される。また、同じアクターであっても、異なるプロセスや文脈においては異なる機能を持つこともあり得る。つまり、ネットワークは有機的な存在であり、空間軸と時間軸を同時に持ったダイナミックなモデルとして考えることができます。一番の大きな特徴は、その有機的なネットワークを構成する要素として、アクター=人間だけでなく、動物や自然、あるいは人工物といったモノの世界も対等に扱う点にあるでしょう。西欧的な考え方においては、人(主体)とモノ(客体)は、お互い決して相容れないものであり、人がモノに従属したり、モノが人を従属させたりすることは否定されてきました。人とモノとの協働性や相互浸透性が正面から論じられることはありませんでした。対して、あらゆる境界を柔軟に考えるANTでは、モノは行為主体であり、周囲に影響を与える中心的な存在として論じられます。
3.11以降の原発問題でも明らかなように、社会的な側面と自然的な側面が一体になって、どう解決していいのか誰にもわからないような複雑になるばかりのコンフリクトや、予測のできないリスクが増え続けています。様々な分野から指摘されているように、科学や国家、国際政治といった近代の枠組みに限界がきており、近代社会それ自体が危険な状態に陥っているのではないかともいわれています。ラトゥールがわざわざANTという細工を凝らし新しい視野を導入したのも、近代という枠組みを批判的に捉え、それを乗り越えるという目的があったからだと思います。彼は「私たちがかつて近代人だったことは一度もない」と断言しながら、近代というねじれた構造を批判します。実はANTよりも、この批判的視座がとてもエキサイティングです。近代というのはネットワークの結びつきのひとつの帰結でしかない。前近代も近代の差異も、あるいは未開という「あちら側」と、観察する「こちら側」の差異も必然ではなく、アクター同士の結びつきの方の差異でしかない。それを立証するための手段として、ANTが必要とされたのだといえるでしょう。
近代が限界なのかどうか、すでに終わっているのかどうかはここで断言することはできませんが、自分自身や身の回りの声を丁寧に聞いてみると、僕達が日々過ごしている生活の中で、ある種の不具合が頻出していることは明らかではないでしょうか。子育ての大変さや、消費では解消されないなんともいえない将来不安。どうやって解決していいのか、だれに異議を唱えていいかわからないけれども、誰もがなんとなく感じている生きづらさ。そういった些細で個人的な事柄も、ラトゥールが批判し、可能性を探ろうとした対象の延長線上にあると僕は考えています。「近代なんて存在しなかった」という、これまで僕たちが身につけてきた世界の見方をダイナミックに矯正しようとする理論枠組みは、ともするととんでもない話に聞こえるかもしれません。けれども、少し見方を変えると、現在自分たちを取り囲んでいる社会制度や決まり事は必然ではなく、自分自身もアクターのひとつとして社会形成に参加しながら、自分たちにとって心地よいカタチにデザイン可能だというふうにも理解することができるでしょう。理論そのものは難解ですが、実は、近代的な制度では見落とされているもの、ないがしろにされてきたことを掬いあげることを可能とするような、すごくポジティブで実践的な思考だと僕は理解しています。さらにいえば、モノ自身がなんらかの作用を及ぼす世界というのは論理的には想像し難いかもしれませんが、「物語」や「もののけ」というような用語を日常的に使ってきた日本人的な感覚からすると、意外とすんなりと理解できる、もしかするとすごく身近なパースペクティブなのかもしれません。
ラトゥールのACTANT
ACTANTの話に戻りましょう。これまではわかりやすくアクターという言葉を使ってきましたが、ラトゥール自身は、アクターという単語を使ってしまうと英語圏では「人間」に限定される場合が多く、非人間的要素が省かれてしまう事を危惧し、代わりにアクタント(ACTANT)という言葉を使用しています。元々の意味は、ある物語の中でアクティブな役割を演じる人や生物、あるいはモノのことを指す言語学の用語ですが、ラトゥールはアクターの含意する意味をずらすために意図的に科学実践分析の場に援用しました。実際の著作の中では、アクターとアクタントは厳密に区別されることなく混在して使用されているので注意が必要ですが、ANTで使われる意味としては、両者は同義と考えてかまわないでしょう。
ここまでくると明らかですが、ACTANTという社名には、ラトゥールの使用している用語の意味合いを込めています。例えば、サービスデザインの文脈では、デザイナーは様々なツールを使いながら、時間的、空間的なネットワークの関係性を分析していきます。その結果を元にして、狭義のデザイン(グラフィックや空間設計やウェブサイトデザイン等)を連携させながら、一貫性を持った体験のエコシステムをデザインします。ラトゥールの文章を読み進めながら、アクタントという用語を発見した時、もしかするとANTはサービスデザイン的な手法と親和性があるのではないか、設立時のメンバーや、今後加わるだろうメンバーの専門性に、ゆるやかなつながりをもたせられるのではないかと思ったのです。ANTを背景にこの会社の方向性を考えると、少し大げさになってしまいますが、ACTANTは、近代デザインという枠組みを超えて、人もモノも同等に捉えながら動的なネットワークやエコシステムを共創するデザインエージェンシーということになります。
ACTANTという名前に込めた期待
ACTANTがこういう活動をしていけるといいなという期待を、ANTに関連させて整理すると次のようになります。
1. デザイナーの役割を変える
おそらくデザイナーの立ち位置は、今後数年で大きく変化するでしょう。デザイナーは、文化人類学者が未開の地を観察するように、現代社会に生きる僕たちがどのような枠組みのなかで思考し、行動しているか、どのようなアクタントが相互に関係しているかを子細に観察する能力を身につける必要があります。また、観察者であるだけではなく、自分自身もアクタントであり、ネットワークの一部であることを意識しながら、デザインを通して社会そのものに作用していくことも重要です。その時、デザイナーは全てを設計/コントロールするという特権的な立場から離れて、多様なアクタントと連携しながら価値形成をおこなっていくことが必要となるでしょう。弊社では全てのメンバーがリサーチからファシリテーション、アウトプットの設計まで、デザインの工程全てになんらかの形で関わるようにつとめています。
2. 価値共創のプロセスをデザインする
デザイナーの役割の変化は、価値共創という考え方につながります。モノやサービスという具体的なアウトプット自体を、価値共創という観点から発想してデザインするのはもちろんのこと、デザインのプロセスそのものをオープンにして価値共創を進めることが重要だと考えています。複雑な状況や問題に対して、狭義のデザイナーという一人の専門家ができることは限られています。多様なステークホルダーの経験や知をどう結晶化させるかが益々重要になってくるでしょう。現在、弊社のプロジェクトでは、クライアントへのデザイン手法導入を中心に、従来のクライアント/デザイナーという関係性ではないかたちでのコラボレーションプロセスをとりいれています。また、サービスの対象となる生活者を、これまでのように単なるユーザーや消費者というリサーチ対象として扱うのではなく、対等なデザイナーとして捉えた共創プロセスを進めることも増えてきている。
3. モノゴトをデザインする
ANTが示唆するような人間も自然物も同等に捉える視点を、素直にデザインという文脈へ援用するならば、モノのデザインもコトのデザインもわけて考える必要はない、ということがいえるのではないでしょうか。情報デザインやデザイン思考が代表する近年のデザインの潮流では、モノではなくコトのデザインが重要であるとされてきました。それはモノのデザインしか意識されてこなかった状況を変革する大変示唆に富んだ発想です。しかし、タッチポイントとしてのモノのクオリティも、それをネットワーク構成の一要素として考えれば、全体のネットワークの凝集力に多大に影響を与える重要なアクタントのひとつだといえます。当然のことながらポストイットにアイデアを書いているだけでは本当に面白いコトを立ち上がらせることはできません。弊社では、リサーチやコンセプト設計をおこなうまでのプロジェクトも数多く手がけていますが、同時に、しっかりと手を動かしながら各タッチポイントの質を高めることも疎かにしないようにしています。同様に、単なるアイデアや意匠だけでなく、それらが社会の中で有機的な影響力を持つように、事業スキームや収益構造の設計をすることも重要だと認識しており、弊社のデザインプロセスの中には必ず取り入れるようにしています。
4. 研究と実践を行き来する
ソーシャルイノベーションデザイン、コミュニティデザイン、サービスデザイン、インクルーシブデザイン等々、新しいデザイン分野の模索が様々な文脈でなされています。言説はどんどん分化し混乱しているようにも見えます。対して、グラフィックデザインや建築といった既存のデザイン分野にも、批判すべき課題は噴出しています。少し大げさにいえば、近代が限界に近づいているという見方と同様、おそらく近代デザインという枠組みも、そのどこかが機能不全に陥っており、新しい枠組みが必要とされているからでしょう。ACTANTという社名には、ラトゥールが目指したことを敷衍しつつ、近代デザインの枠組みを批判しながら、もう少し妥当なデザインの枠組みを構築できればいいな、という思いが込めてあります。換言すると、近代デザインを乗り越えた先にあるデザイン的なるものの実践を、営利活動として健全に成り立たせながら取り組んでいく、ということが弊社の目標であるともいえます。未だ形になっていない領域の評価軸や型は未だどこにも存在していません。そのため、弊社では、短期的なクライアントワークでは取り組むことが難しい研究開発的な側面も重視しています。10年後当然となっているようなデザインプロセスに向かって、実践の中でトライアンドエラーを繰り返しながら少しづつ近づこうとしています。
以上、散漫になりつつもACTANTという社名の由来をまとめてみました。ここまで書いて思ったことですが、もしかすると、ACTANTそのものがアクターネットワークなのかもしれません。僕は上記課題にビジュアル・コミュニケーションというアプローチから接近しようとしていますが、その他のメンバーや社外のパートナーの方々は他の課題意識とともに僕とは異なるアクタントとしてネットワークの形成に参加しています。ACTANTがスタートアップとして、日々試行錯誤するなかで、今後どのようなネットワークが生成されていくのか、とても楽しみです。(南部隆一)
参考文献
ブルーノ・ラトゥール『虚構の近代 ─ 科学人類学は警告する』 川村久美子訳、新評論、2008年。
ブルーノ・ラトゥール『科学がつくられているとき ─ 人類学的考察』 川崎勝・高田紀代志訳、産業図書、1999年。
(2016.5.11)