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鳩の街


私が学生時代を過ごしたのは1970年代の10年間だった。冷静に考えれば暮らした街に1900(明治33~)年代の老人が当然のことながらいたはずだ。だが、その頃にその「時代」を念頭に思い浮かべることがなかった(残念だ)
なぜそんなことを言うかというと、彼らは明治大正昭和、そうして「戦前~戦後」の架橋的存在だったと、いまさらながらふと気づいたからである。(photoはタイトルの街ではありません)

「曳舟」の駅から入り組んだ路地を抜けて水戸街道方面へ行くとやや広い道にポッと間口の広い一杯飲み屋が現れる。店の名前は忘れた。
オヤジは、そう、今思えば40代だったか。ガランとした厨房でさして凝ったつまみも作らず酎ハイなんかを適当に出していた。もちろん、それで十分だった。だが、己は気づくべきだった。オヤジが1970年のその時40代だったということは1945年にはおそらく10代だったということだ(後日、1945年3月10日の大空襲の話を聴くことでやっとわかることにはなるのだが…)

どういう加減かたまに妙齢の女の人がいた。
「別れた女房」だという。
つい、酒量が嵩む…何てこった、でもこれが呑み助ってヤツだ。救えない。
その時には私にもさしたる妄想は無い…たぶん。

銭湯に浸かっていたって場合によっては隣の爺さんが戦争帰りだったりということはいくらでもあることで(それを言ったらお前の子供の頃なんて周りは戦争帰りばっかりだったはずだろ、でもあるけれど)「人を殺めた人」である可能性はあったわけだ。このことは決して侮れないと思う。

たまたまいつもならいくらでも客が来そうな夜、私と二人だけになってしばらくして空襲の話をしていた。
「家の隣の『下駄屋』のショウチャンがいつも枕の下に空襲にあったら持ち出すんだと言っていた大事なものはひとっつも持たないで文字通り枕一つで逃げてきた」
今、ここにこうして書けば、ただそれだけのことだが、語り口はいわゆる下町のおじさんのイントネーションで、それはとても耳に心地いいものであった。
10代の少年の経験である。私はもっと深い敬意をもって聴くべきであったと思う。決していい加減に聴いていたわけでは無いにしても。

下駄のショウチャンは生き残ったものの家族は皆焼け死んだとか、オヤジさん自身は右往左往の挙句の果てにどうにか助かったとか、それでも川(隅田川)は死体の山だったとか、オヤジさんは丁寧に話したのに私がただの聴き手であった。すまなかったと思う。

どうしてその店に行かなくなったかと言えば簡単だ。
別れたという女房殿の間に娘さんがいてその娘さんが店に出て接待をするようになったのである。綺麗な娘でいい子だったが…

呑み助の客というのは正直なものだ。
徐々に自分とは相容れない客層が現れ足が遠のいた。
で、それでおしまい。