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薄荷の贈り物

『向日性植物』李屏瑤を読んだ。

中程、語り手「私」が台湾大学に入学するあたりまでがとてもヴィヴィッドで初々しかった。「私」の懊悩も説明的でなく心理の細部を行動や台詞で描いているかに思う。心もとない喩えだが、何本か見た台湾映画の中の空気を思い出した。夏の陽差しの中でも一服の清涼感が漂っている、あの「薄荷」風味の文章(翻訳だけど)なのだ。

私が残念に感じたのは「私」と「学姐」、「小莫」との関係がやや具体的になっていく大学時代以降、描写は「私」が語っている現在に追いつこうとして時間の経過に傾いてしまったという感じが拭えなかった。

高校時代の章ごとに警句のように語られる内省的な綴りもいい。
そして何よりの感想としてこの小説は「名前」の小説でもある。普通名詞なのだろうけど「学姐(シュエ・ジェー)」だなんてなんてやさしい響きなのか。そして「学姐」の名が「小游(シャウヨウ)」!。まるで陽光を浴びた水滴のような響きではないか。「小莫(シャウムウ)」、低くくぐもった茶色い響き。「阿青(アーチン)」「小旻(シャウミン)」…いずれもクリスタルグラスの中の小さな宝石のようである。この小説は「音の響き」小説でもあった。

ひとつ、これはうっかりかもしれないのだが小説中「私」の名が呼ばれることが無かった…これって意図的なのかな?
「私」は実は「作者」ということの謂なのかな?

私は1990年代に台湾に行ったことがあるのだがやはり映画で感じた気分を台北で受け止めていた。でももしかしたら予め映画で養われた台湾観が出来上がっていたのでそのように台北をながめていたのかもしれない。
ある日また尋ねる機会があったらそこに『向日性植物』の名前の音を重ねてみたい気がしている。