教育とは、パターナリズムである。

面白い論文を見つけたので紹介したい。

倫理学と教育学の中間のようなテーマ。

山梨八重子『教育におけるパターナリズム正当化根拠のー考察』

以下、冒頭からの引用。

パターナリズムの視点から教育をとらえると、教育自体が一つの社会的なパターナリスティックな行為であり、それ自体すべてが非難されるものではないとの認識が一般的である。教師自身はそれが善意からなされているという暗黙の了解に依拠し、かつ教師の義務や責務として理解しているために、それ自体の是非を教師自身が問うこ とは少なかった。そのため、時に子どもへの指導と称する行為が子どもの自己決定の変更を強要することがあったとしても、それは善意からのものととらえられることが多い。しかし善意からなされる行為としても、行き過ぎる干渉や介入となる危険がありうる。

例えば、進路面談において、教師が「正しい人生」や「よい人生」を定義し、それを生徒に押し付けることはあってはならない。

「正しさ」や「よさ」とは、個人にしか決めることができないということは、自由主義国家であれば当然の前提だろう。

しかしながら、もし私が高校3年生の進路面談で「フリーターになる」と言えば、教員は怒っただろう。

ミニマリストがブームになり、最小限の労働で最低限の消費で生きていくような人生が尊重される現代社会でも、教師はなり振り構わずフリーターを否定し、大学進学を良いことと決めつける。

あろうことか、公的な機関に勤める教育公務員が、である。善や正義を定義し、指導の名の下に押し付けている。

しかも、学校での教育行為だからこそ、それを避けることは常識的に(学校道徳的に)できない。生徒は先生のお節介から逃げられないのである。

筆者はこの具体的な例として、生徒の妊娠を挙げている。

筆者が経験した現場や見聞きした学校現場で、強いパターナステックな指導の事例を上げることができる。典型的には、妊娠した女子高校生に対する指導では、本人の意思に関係なく中絶ありきでことが進む。その時子どもへの説明の根拠としてはいくつかのものがある。1妊娠した場合は校風を乱したという校則違反による退学 という校則の処分を回避するため、2退学によって将来に生じる本人の損失、3若くしての出産による生まれて来る子どもへの影響など。

進路や妊娠の話は、「生徒の人生」に関することである。

その良し悪しは、その生徒本人にしか意義を見つけられない。

教師という権威的な立場を利用して、強制することはあってはならない。

さらには、指導という名の干渉にもかなりの注意を払わなければならない。

私は教師という存在が大嫌いである。その理由は、ここに書いた通り「教育」し、私に干渉してくるからである。

私の学習や私の人生は、私だけのものなのに。

だから、友人が教師になるととても悲しい気持ちになる。

これを見ている教師たちよ。善意で生徒に干渉するな。迷惑に思っている人はたくさんいるぞ。

(「でも、、、。」じゃねえ!!!)

教育思想の学生より。


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