004 ピーノ アプリーレ「愚か者ほど出世する」
日本語タイトルから、「昭和なサラリーマンが居酒屋で会社の愚痴で盛り上がる」ような内容をイメージしそうだが、なかなかどうして、内容は、シニカルでユーモラス、そして鋭い。
やたら理性を軸に置きたがる哲学書などとは逆に、本書は「愚かさ」についての考察であり、いくつもの思考の糧が詰まっている。
んーん…中央公論社は、おもしろおかしい「バカ本の決定版!」で売ろうとしようとしているようだが…
本の流れ
イタリア語のタイトルは、
Elogio dell’imbecille: Gli intelligenti hanno fatto il mondo, gli stupidi ci vivono alla grande (愚者礼讃:知性が世界を作り、愚か者がそこに住んでいる)
冒頭の一文。これが作者の思索の出発点である。リアルにバカなことをする人の話ではない。一流企業やエリート達の行動を揶揄しての発言。
話は、著者が、動物行動学の大御所コンラート・ローレンツとの対談をきっかけに、ローレンツの知人である哲学教授と往復書簡で議論を戦わせる。著者は「知性は自然淘汰に必要だったその役目をもう終えており、一種の文化的な選択により、人間は、知性を利用しない方向に進んでいる」のではないかという説を主張するのに対し、哲学教授は、人間の知性を信頼し、より明るい未来へ進むと信じている。
ネアンデルタール人の昔に遡って、進化論的な必然とし、知性の退化について哲学教授と論戦を戦わせていく。このあたりが、読みものとしての面白さなのだろう。(学術的な観点で批判するのはお門違い。あくまで「読みもの」として捉えるべきと思う。)
ここまでがこの本について。
ここからは、文章を引用しながら、あーだこーだ考えてみた軌跡を残す。
この本で、魅力を感じたのは、読みものとしての面白さよりも、作者の表現力だった。
「創意工夫」と「反復」
「創意工夫」と「反復」が対比される。
そんな訳で、
というところに帰結する。
作者は、意味のないばかげた行為を習慣的に行うだけの「バカ」たちに、いらだちを感じている。
なぜ奴らは「バカ」なのか?
奴らは、知的な人たちが成果を模倣(反復)するだけだからだ!
模倣(反復)を助長するメカニズムとその帰結
反復は、短時間で、目に見える成果が期待できる。時代は、目に見える数字となって現れるものを過度に重視し、しかも短期間でそれを要求する。
いわく、「今年度の売上」「中期経営計画(と言ってもたかが3年)」 。
かたや、創意工夫を担う「社員の力量」なんて、すぐには育たないし数値化もできない。ましてや、それを育む文化などというものは、さらに曖昧。
なので、反復による成果を求めることが、合理的で効率的だとされる。
そして、長期的には「社員の力量」は弱体化していき、それを育む文化は破壊されていく。
バブル崩壊後、合理化と効率化に傾いた日本企業が弱体化していく理由が見えてくる気がする…
「模倣」の効用と弊害
考えてみると、われわれの文化は、先人の知恵の上に成り立っている。
科学技術は、今日のフロンティアが明日のノーマルになるかたちで、発展を続けている。
さらに、もっと根本的なところの例として、「ことば」も先人が事物・事象・観念にことばをあてはめることで、思考の幅を広げていく創意工夫の蓄積であり、われわれは、これらを受け入れることで、はじめて、文化を継承することが可能になる。まわりで使われている「ことば」を受け入れることが重要で、自分ひとりで考え出したりはしない。(してもいいけど)
人間文化の発展の核心は「模倣」にある、ともいえる。
人間文化の発展の核心は模倣にあるが、作者がいうように、
模倣(反復)するだけだと知的資質は衰えてしまう。
「刺激がなくなるからだ」というのは、少し違う気がする。知的資質を使うのは「技能」であって、ふだんから使う努力をしていないと、うまく使えるようにならないからだと思う。
文化が準備した「常識」を身にまとうこと、と、個々人の創意工夫。
ここにジレンマが生じる。ジレンマというか、バランスの問題。
「社会」とのかかわり方
社会や組織は、規律と習慣によって円滑に動いている。
一見ばかげた規律や習慣であっても、それを捨てるわけにはいかない。
集団内の行動の一般原則(規律と習慣を守るべし)の下、人間の頭の性質(疑ったり、批判したり、新しいものを求めたりする)は、抑圧されざるを得ないという一面がある。
社会人経験のある方なら良くわかると思う。
すでに習慣化された業務のやり方に異を唱えたり、変えてやろうとすると、ろくなことがない。どんな真っ当な改善に対してでも、必ず反対派が現れる。生理的に変化を嫌う人が意外なほど多いことに驚かされる。「社会を少しはましにしよう」とする努力は、なかなか報われないものである。
ましてや、世間の習慣や常識と戦うとなると、個人の力ではほとんど勝ち目がない。
学問の自由を守ろうと行動を起こしたスピノザ。
(そして、総スカンを食らう)
そんなもくろみは失敗に終わることを悟っていて、積極的行動を避けたデカルト。
社会の中にあって、個々の知性はどう生かせるのか?
議論を通して、個々の知性をより良く活用する道はあるのだろうか?
おわりに
本書で扱われているのは、既存の習慣や価値観と個々人の持つ知性との軋轢とみれば、ギリシャの時代から繰り返し議論されてきた、普遍的なテーマともとれる。
大きな組織を合理的に管理しようとすると、個人の持っている(であろう)能力や知恵はスポイルされてしまう。本来もっと有能であるべき人物でも、組織に順応していく中で無能化されてしまう。
この、なんとももったいないシナリオ、なんとかする方策はないのだろうか?
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