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踊る指揮者

 生まれてこの方ダンスや舞踊といったものに興味がなく、その良さというか良し悪しがあまりわからず、小学校の運動会とかレクリエーションで自分自身が踊るのも不得手で、身体を動かす表現というものに自分は興味が無いと思い込んでいたが、そんなことは無い、身体表現というものはとても面白いかもしれないと思い始めたのは、クラシック音楽を本格的に好きになってからだった。

見るものとしての指揮者

 クラシック音楽の中の身体表現というとバレエかオペラになるんだと思うが、そういうことではくて、クラシックの中で常に身体を動かしている人間が、バレエダンサーやオペラ歌手以外に1人いる。指揮者である。指揮者の振りっぷりを楽しむことそのものは別に珍しいことではないし、指揮者自身もカッコいい指揮を模索してスタイルを形作っていく。カラヤンなどはそのハシリであろうし、場合によっては音ではなく己の振り姿優先で指揮をし、それを映像に収めることに執念を燃やしたカラヤンは、最早ヴィジュアル系指揮者と言ってもいいだろう。

 そういえば昔、自分が入っていたオーケストラの演奏会を見に来てくれた友人に「指揮者って要るの?」と言われたことがあるが、演奏面で言えば必要不可欠では無い。10数人くらいの弦楽オーケストラであればコンサートマスターがある程度指示を出すことで弾けてしまうし、昨年あたりに指揮者なしでベートーヴェンの第九を弾いてしまおうという試みをNHKで見た。では指揮者を無くしてしまおうとなるかというと、そうはならない。テレビ朝日の長寿クラシック番組である『題名のない音楽会』の、恐らく80年代頃に放送された指揮者・井上道義がゲストの回で、司会の作曲家・黛敏郎が「指揮者の役割は3つあります、テンポの設定、音楽の視覚化、(3つ目は失念)」と言っていた。この中で指揮者の一番大きい役割は恐らくテンポの設定で、それは本番までの練習にて成されるため、観衆の目の前でこのテンポの設定が行われることはなく、クラシックをあまり知らない人が見たらただ音楽に合わせて踊っている人に見えるかもしれない。もちろん指揮者のキューが無ければオケはガタガタになってしまうが、このクラシックを知らない人の視点はあながち間違っていないのでは無いだろうか。つまり、彼らはまさしく指揮者によって「視覚化された音楽」を目の当たりにして、それを享受している。指揮者には、奏者に向けたただのメトロノームではなく、観客に向けて音楽に合わせた身体表現を行う、ある種のダンサーとしての側面があると思う。そして、指揮者の振り姿というのは、それ自体がどうしようもなく魅力的なのだ。
(ちなみに、『題名のない音楽会』の井上道義回は「踊る指揮者、井上道義」という題で、バレエをやっていた井上に指揮の途中でバレエを踊らせるという摩訶不思議な企画で、まさにこの文章にぴったりの映像だったが、残念ながらYoutubeから消えてしまった。)

カルロス・クライバー

 僕がいちばん好きな指揮者は、カルロス・クライバーである。ドイツ人だが第二次大戦中にアルゼンチンに亡命していたため、元のカールを変えてカルロスという名になった。クライバーはまごうことなきカリスマ指揮者で、どこかしらのオーケストラや歌劇場の指揮者になることもなく、フリーとしてヨーロッパや各地のオケに客演し続け、またウィーンフィルのニューイヤーコンサートで度々振るなどの活躍ぶりからも、その天才性が伺われる。
 クライバーの音楽性が抜きん出ていることは言うまでもないが、何よりもその振り姿が素晴らしい。

この動画(音ズレしてるのが残念だが)だと4:22あたりからが彼の魅力が最大限伝わると思う。奏者に指示を出すという目的を超えて非常に装飾的であり、だがしかし無駄はなく、音楽をそのまま身体の動きに刻印したというような、そういう印象を受ける。クライバーの指揮の特徴は、まずその軽やかさとしなやかさである。バトンテクニックに限って言っても、その柔らかさは抜きん出ている。普通、指揮棒を振るとき指揮棒は手に完全に固定され、手の動きに従う。カラヤンなどもそうだ。

だがクライバーの場合、指揮棒は手から遊離する。例えば指揮棒を下に振り下ろすとき、腕は下に向かって動くが指揮棒は常に上を向く。指揮棒を左右に振るときも振り上げるときも手の動きと反対方向に指揮棒が向く、つまり指揮棒の先端は手の動きに対して常に遅れて動くことになる。この動き自体は多くの指揮者がやっており、そこまで珍しいものではない。だがクライバーはこれを徹底して行う。その結果、彼の振り姿はとてもしなやかなものとなる。クライバーのこのしなやかさは、指揮棒の扱いに限らない。クライバーはかなり大きく腕を振るが、そのとき胴体を使って勢いをつけるようなことはしない。肩から先の動きだけで俊敏に滑らかに腕を振る。つまり腕から先が胴体から遊離している。では、腕の力によって振っているのかというと、そうではないように見える。腕は重さを失い、まるで指揮棒を持つ手と胴体を繋げる命綱として機能しているようである。したがって手は腕から遊離している。腕は胴体から遊離し、手は腕から遊離し、指揮棒は手から遊離している。だがそれぞれがチグハグに動いているわけではなく、非常に有機的に関係しあってひとつの大きな動きを形成し、黒い燕尾服の袖が後景に溶け込むことも相まって、手は体の周囲を自由自在に漂い、まるで蝶が舞うような軽やかな指揮姿となる。その指揮姿を見ていると、クライバーはめちゃくちゃ運動神経が良くて、身体も柔らかいんじゃないかといつも思う。まあ実際どうなのかは知らないが、指揮者は運動神経が良くないとできないだろうなと常々思う。
 クライバーの指揮の最大の特徴はもちろん上記のしなやかさだが、しなやか一辺倒なだけでなく、時に打点の力強さもあり、その緩急によって非凡な魅力を発揮している。先のベートーヴェン7番の動画だと、第4楽章の32:45あたりでそれが伺えると思う。そして最後に一つ、クライバーの指揮を彼の指揮たらしめているもう一つの点は、特徴的な振り始めである。クライバーは観客の拍手が鳴り止むのを待たずに振り始める。そして振り始めの予備動作は必ず一拍しかしない。二拍や三拍の予備動作があるのが一般的だから、奏者の側からすれば弾きにくくてしょうがないと思う。クライバーが拍手が止むのを待たず、一拍のみで振り始めるのがどういった意図の上でなのか、セルフプロデュースの一環なのかは分からないが、そのストイックで職人的な身振りが、彼をカリスマたらしめているのだろう。このR.シュトラウス『薔薇の騎士』の序曲の振り始めなど、まさにそうである。

ロックなどの場合

 指揮者の振り姿を見て身体の動き・ダンスに興味を持ち始めたとは言ったものの、以前から身体の動きに惹かれることが無いわけではなかった。中学時代から大学に入ったばかりの頃まではロックを中心に聴いていた訳だが、ロックはビジュアルの比重もとても大きい訳で、それも込みでアーティストへの愛着を持つ。そしてやはり、その身体の動きにどうしようもなく惹かれたアーティストは存在する。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジである。カルロス・クライバーの動きについて言語化してみて、ペイジの動きと共通点が多いのではないか、と思い当たった。つまり、身体のパーツがそれぞれバラバラになりながらも、それらが有機的に連動する在り方である。ロックとクラシックなので全く別種の動きのようでいて、似ている部分も多いのかも知れず、そして僕は一貫してそのような身体の動きに惹かれてきたようである。

ちなみに、先のクライバーが指揮の振り始めで一拍しか予備動作をしないという点について、ファンクの帝王ジェームス・ブラウンもよくバンドにキューを出す時に一拍しか振らない。振らないという言い方も変だが、ビッグバンドで1,2,3,4のカウントではなく身体の動きでキューを出すというのは理に適ってるだろうし、JBは練習の鬼だったようだから、バンドがこのように合わせるのが可能だったのだろう。この動画だと、0:40あたりでその動きが確認できる。

映画の場合

 映画にしてもそうである。映画においても、僕はやはり身体のパーツの有機的な連携、そしてあるリズムから要請される身体の動きというものに惹かれるようだ。いい感じの映像が無いためここに載せることはできないが、敢えて挙げるならば小津安二郎の『秋刀魚の味』の、岡田茉莉子と佐田啓二夫婦が休日に険悪になっているところに岩下志麻と、ゴルフクラブを持った吉田輝夫が訪ねて来て、岡田と佐田がゴルフクラブを買う買わないで言い争うシーンで、岡田が佐田にゴルフクラブを買ってはダメだと断じた後に痺れを切らしてお金を取りに立ち上がるのだが、その時普通によっこらしょと立ち上がるのではなく、一度小さく腰を浮かせて勢いを付けてから素早く立ち上がる。ここにもやはりある種の軽さと律動がある。小さな予備の動きから大きなメインの動きが紡ぎ出される様は、クライバーの一拍の振り始めさながらで、そういう因果律で進んでいく動きの連関というものはやはり美しいと思う。岡田は正座から立ち上がるのだが、そうとは思えないほど上半身は真っ直ぐなまま、姿勢を大きく崩すこともなくスッと立ち上がる。仮に今後映画を撮ることがあるとしたら、ショットなどよりも、俳優の動きに気を遣って演出をしてみたいかもしれない。
 逆に言えば、そういったリズムに要請されないチグハグな動きというのも存在する訳で、それにもそれ故の魅力はあるのだと思う。ジャック・リヴェットの『北の橋』におけるパスカル・オジェの動きがまさしくそれで、あまりに滑稽なほどギクシャクと身体が動く。この映像は『北の橋』のラストシーンであり、ネタバレ注意。1:00あたりからハゲのおじさんと空手を始める黒いライダースの女性がパスカル・オジェである。

小津の映画の俳優の動きと比べると、その差はより際立つ。こういった動きが完全な演出なのか、それとも俳優に元々備わっている身体性の賜物なのかは分からないが、この動きを演出で目指すとしたらかなり大変なのではないか、と思う。

セーラー服を翻し...

 ダンスに興味を持ったと言いながら、指揮者にせよロックスターにせよ俳優にせよ、身体の動きが副次的であるものばかりを扱ってきたが、つい最近、初めてダンスそのものがいいと思えるアーティストに出会った。新しい学校のリーダーズという、アイドルなのかダンスユニットなのかよく分からないセーラー服の4人組がいるが、ダンスの中の特定のジャンルに回収されない非常に特徴的な振り付けがおもしろい(自分はダンスのジャンルに関しては本当の無知だが)。彼女らのダンスは音楽のリズムに合わせながらも、惰性に任せた動きをせず、常にその音楽の視覚化の位置に留まり、身体性と音楽が良い形で噛み合っているように思う。彼女たちは元々非常にダンスが上手いのだと思うが、その溢れんばかりの運動神経があってこそ初めて音楽の忠実な視覚化ができるのであろう。新しい学校のリーダーズ(略称はないのか?)にハマったのを足がかりに、ダンス・舞踊というものの魅力を探求してみたい。
 ちなみに僕は、ポカリの広告のような制服学園表象はあまり好んでいないが、新しい学校のリーダーズの場合は(なぜ制服を着ているのか実際のところは知らないが)、世間一般に流布している学生の青春像のようなものを相対化するような楽曲や、スカートをたくし上げるような振り付けなど、制服を着てそういう表現の一端を担うことを引き受けながらも、そのような表現を内破していくような絶妙な強さがあると思う。

アクチュアルな指揮

 というようなわけで、偏執的な文章を書いてしまったが、カルロス・クライバーやその他の好きな指揮者、また例として挙げたジミー・ペイジや小津の映画というのは遥か昔に隆盛を誇ったものなわけで、クライバーも2004年に74歳という若さで亡くなってしまっている。
 指揮者の話に戻そう。近年、とりわけここ20年くらいで、クラシックは音楽の多様性、つまり楽譜の解釈の多様性がなくなり、オケごとの音も均一化が進んでいるとよく聞く。それは実際そうなのだろうし、やはりクラシック産業が盛んで指揮者がスターだった1970,80年代以前のような時代と現在を比べると、ある種の寂しさを感じる。それは指揮のスタイルについても同様で、昔のような見とれてしまうような指揮者というのも少なくなったのだろうなと思う。だがそういう個性を持った指揮をする人が皆無になったのかというとそんなことはなく、ロシアのヴァレリー・ゲルギエフと韓国のチョン・ミョンフンはその多様性を担保する存在なのだろうと個人的に思う。

2人とも、もう一目見れば分かる強烈なスタイルの持ち主である。音楽性にしても、今現在世界で最も優れた指揮者たちと言っても過言ではないだろう。だが、ゲルギエフは2022年のロシアによるウクライナ侵攻の煽りを受けて、西ヨーロッパの幾多のオーケストラに職を持っていたにも関わらず、プーチンと親しかったこともあってウクライナ侵攻についての所見を問われた際に徹底的に黙秘したため、それらの職を一斉に解かれ、音沙汰が無くなって久しい。これはまさしくクラシック界にとっての悲劇であり、そして侵攻そのものが現在進行形の惨禍である。そしてミョンフンもすでに70代に差し掛かっており、今のような活動をできる期間もそれほど長くはない。クラシックの未来について考えるとき、その未来は明るいと言い切れる状態ではないだろう。だがクラシックは潰えることはないだろうと信じたい。フィンランドから20代後半の青年(僕と3つしか変わらない)、クラウス・マケラがデビューしてパリ管弦楽団の音楽監督に就くなど、若手も続々と活躍し出しているし、2018年には東京国際音楽コンクールの指揮部門で、冲澤のどかが1位入賞という快挙を果たしているし、2022年のショパンピアノコンクールに2位で入賞した反田恭平も指揮者を目指しているなど、明るいニュースも多い。僕も下手くそながらチェロを弾いているが、チェロが上手くなるまで気持ちよく弾き続けたいので、彼らには頑張ってもらいたい。

2023年1月27日

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