「4割打者の絶滅」の理由と「中小企業支援の逆説」
1.ランダムウォーク理論
ランダムウォークというものがあります。酔歩、つまり酔っ払いの千鳥足がよくその例に出されます。つまり、帰趨本能を失った酔っ払いがフラフラと道を歩くと右へ行ったり左に行ったり、まったく予測不能な動きをすること、これがランダムウォークです。これは液体や気体中に浮遊する微粒子が、不規則に運動する現象と同じであり、ブラウン運動と言われています。
株式の世界においても、ランダムウォーク理論があります。それは、株式の値動きは、どの時点においても長期的にも短期的にも「上昇と下降の可能性」がほぼ同じであり独立した事象であるから、過去のトレンドやデータによって将来の値動きを予測することは不可能である、とする理論です。いわゆる株価の「予測不可能性」です。
しかしながら、酔っ払いの動きにしても、あるいはコインを投げて裏・表で左右にコインを動かしても、数多く実行すると、この動きは正規分布になります。
2.進化における「壁」
進化生物学者のスティーブン・ジェイ・グールドは、「フルハウス 生命の全容」において、このランダムウォークの考えを進化理論に結び付けました。ダーウィンの進化論においては、変異そのものは自然淘汰を生み出すものであるが、それは局地的なものでしかないとしています。また変異そのものは進化を意味するものではなく、どの方向でも(より優れた良い方向にも、またより退化した悪い方向にも)起こり得るわけです。それがなぜ一般的により優れている方向に進化を生み出してきたのか、という疑問に対する考察です。
これを説明するためにグールドは「壁」の考えを使いました。つまり、ランダムウォークの一方に壁があったらどうなるでしょう。酔っ払いは(仮に左側に壁があったら、ない時と比較して、右方向に歩くケースが増えます。
いま、左から右へ生物が進歩を遂げてきたとします。そして生物進化における「壁」は、原初の生物であると考えます。つまり35億年前に存在していたことが化石で確認されている生命体、有機化合物の中から自然発生的に生まれた生命の最小限の複雑さを左の「壁」と考えるのです。つまりそれ以上左に行きようがないのです。
つまり、進化は一般論としても、より良い方向に進む、「進歩」というようなものではなく、左側の壁の存在により、結果的に右方向に進むしかなかったという説明をします。これによりダーウィンの進化論における変異が「結果的に」「進歩」につながる可能性が高かったという論理の整合性を生み出すのです。これによって、「進化」そのものがトレンドとして「進歩」であるという幻想を打ち砕いたのです。
3.4割打者の絶滅
一方で、グールドは、熱狂的なプロ野球ファンであり、なぜ4割打者が絶滅したのか、について進化論と「壁」の理論を適応して説明をします。20世紀になって、ナップ・ラジョイが4割2分2厘を打った1901年から、ビル・テリーが4割1厘を打った1930年の間の30年間に7人の選手が4割以上の打率を達成しています。それから10年間だれも4割を打つことはできなかったのです。そして、1941年、テッド・ウイリアムスが大記録の4割6厘を記録しました。その後現在までの約80年間、惜しい選手はいましたが、4割を超える打率を記録した選手はいないのです。
なぜ4割打者がまったくいなくなったのか、いろいろな説明がされています。主として語られているのは、バッティング技術の(絶対的、あるいは相対的な)低下を反映しているというものです。たとえば「投手と駆け引きできる頭のいい打者が減った」「投手の投球術が上がり、またリリーフなど分業制が定着した」「グラブの進歩などによる守備力の向上」「科学的な管理野球の浸透」などを挙げています。
グールドは、陸上競技や競馬などにおいて、記録の向上のパターンが、初期のころは比較的急速に新しい記録が生まれるが、次いでその伸びは著しく鈍り、時には停滞したり、ほんのわずかだけ伸びることから、「人間の肉体的な限界」が存在していると主張します。
これは、分布図で言うと、「右の壁」ということになります。すでに挙げた様々な理由から、野球そのものがシステムとして、プレー全体が大きく向上し、変異が減少したと言います。
グールドは、精緻なデータ分析から上記のような変化があったことを突き止めました。
野球史の初期のころは、プレーの平均は人間の限界である右の壁からずっと離れていたこと、また、守りだけの選手が重宝がられたりして、裾はとても広くなっていることが判明しました。さらにその時期でも並外れた才能と努力の少数の選手は右壁近くに存在していました。そこが4割を可能にする場所なのです。
一方、現代は、①試合のあらゆる側面でプレーは全般的に著しく向上した。②投手と打者のバランスは不変で、2割6分という平均打率は変わっていないが、両者とも以前と比較して格段のレベルの向上が見られるため、昔よりはるかに右壁(=人間の限界)に近くなっている。③ただし、各選手のレベルが上がっていることで、その裾の幅ははるかに縮まっている。
右の壁と平均値の間が縮まったので、現代のトップクラスの選手は、選手の平均値に近いところにいます。したがって、際立った記録を残すことが極めて難しくなり、4割打者が消滅することになったのです。
結論として、「4割打者の消滅は、プレーの全般的向上がその理由であり、絶対的、または相対的に何かが低下した証ではない」グールドは言います。
4.日本の中小企業支援
さて、中小企業の話から、「進化」が必ずしも「進歩」でないとか、「野球の4割打者の絶滅」の話まで飛んでしまいましたが、ここで中小企業支援についての話をようやく始めることができます。
全国の企業の95%以上がいわゆる中小企業であり、従業員数で言うと、70%以上が中小企業に勤務していると言います。国としても一貫して中小企業の支援を行っています。経済的社会的環境の変化への適応の円滑化については、中小企業のセーフティネット資金繰り対策として、1998年から2001年にかけて中小企業金融安定化特別保証制度、2008年から2011年にかけて景気対応緊急保証制度が実施されました。その後も一貫して金融面でのサポートを厚く行ってきました。
現在、コロナ禍もあり国家の中小企業支援は非常に手厚いものになっています。具体的には、ゼロゼロ融資と言われる、新型コロナウイルス禍で売り上げが減った企業に実質無利子(金利ゼロ)・無担保(担保ゼロ)で融資する仕組みです。2022年9月末で締め切られましたが、240万件超、融資総額43兆円と言われています。これにより2021年は倒産件数が57年振りの低水準になったと中小企業庁が発表しています。
2023年5月以降、この「ゼロゼロ融資」の利払いが一斉に始まります。2割くらいの企業が返済不能に陥ると言われていましたが、中小企業庁は、これに対して2023年初めに、新しい借換保証(コロナ借換保証)制度を創出しました。これにより最長で保証期間10年、据置期間5年間(ただし保証料率0.2%)の借換えが可能となったのです。
5.中小企業における左の「壁」
ここで中小企業に、先ほど見てきた生物の「変異」や野球の打者と同様に、ランダムウォークを当てはめてみます。中小企業は酔っ払いの千鳥足とは違うという意見もあるでしょう。しかしながら、ビジネス環境、世界レベルでの競合他社の動き、景気、顧客の嗜好動向、為替など、グローバルネットワークの中、以前より経営の見通しが難しく、そのかじ取りも困難であると言わざるを得ません。100%ランダムであるとは言えないものの、企業の収益や競争力は私たちが思っている以上にランダムです。
そういう観点で、中小企業の姿を現してみると正規分布になると思われます(図の上)。
X軸が、競争力、収益性、生産性などの企業の優劣を表します。Y軸は企業数となります。
当然、この左端の何%かは赤字企業になります。赤字が継続すると市場から退去させられる(つまり倒産したり買収されたり)のが当然のことなのです。従い、事実上左側には、これ以上企業を弱くできない(弱くなると退出せざるを得ない)「壁」が存在します。この「壁」により、生産性の低い企業において資金繰りがつかなくなったり、廃業したりすると、全体の生産性の平均はアップすることになります(下の図)
一方で、すでに説明したように我が国の中小企業政策においては、企業の業種や規模、信用力などに関係なく、資金面での支援を得ることができると言っていい状態です。つまり左側の「壁」が取り払われた状態です。このため、ゾンビ企業の低い生産性までカウントされて、全体の生産性が低いことになるわけです。
また、左側に「壁」があることで、人々はこの「壁」を遠ざけようとするでしょう。つまり野球の話で出ていたシステム全体のレベルアップです。それとともに平均値が右側に移動します。つまり各企業が、進化の時のように全体として右側に移動する「確率」が高まるのです。
一方、現在の厚い中小企業支援の中では、上記のようなモチベーションは働きにくくなります。つまり、昔の野球の状態です。企業の実力は幅広く裾を広げます。一部の企業が大きな成功をおさめる確率は高くなる(4割打者が生まれる)ものの、全体の生産性や競争力はまったく改善することはありません。逆に支援がより広がれば広がるほど、全体の平均が左に移動する可能性が高くなります(努力の必要性が薄れるため)。
これが政府による、「中小企業を生かす」政策の誤りです。
もちろん、企業の95%以上と言われる中小企業が数多く倒産すれば、国民の生活に大きな影響が出ることは間違いありません。したがい、社員のセーフティネット(失業保険や生活保護など)は当然必要です。しかしながら、それを何万社というゾンビ企業を存続させることで解決させるところに問題があるわけです。
ではどのようなものが理想なのでしょうか? 先ほど、「進化」はどうやって「進歩」を生み出すのか見てきました。それは「壁」があることで、跳ね返されるからです。つまり「壁」は多数の弱体化した中小企業の集まるところではなく、右側に「進化」するために企業を徹底的に「変異」させるポイントになる必要があります。
「変異」は単なる改善ではありません。企業を「変える」ことです。ここが重要なポイントです。中小企業の支援は、資金繰りの支援では、全体の生産性を落とす結果しか生んでいません。中小企業にいかに「変異」をもたらすか、そしてその「変異」をどうやって「進歩」に結び付けるかが問われているのです。「変異」を生み出せない中小企業支援は、単にゾンビ企業を大量生産し、日本全体の生産性を低いままにしているだけなのです。
(完)