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「波長が合う」ってどういうこと? メアリー フォレットの思想(番外編)

私たちは、人と「ウマが合う」とか「波長が合う」とかよく言う。特に、初めて出会った人と話をしたりしたあと「なんかあの人とは波長が合うんだよね~」って回りに言う人は多い。もちろん「波長が合わぬ」という逆の場合もある。私自身もこの波長が合う合わない、というのはよく感じるところである。

ではこの「波長」って、一体何だろう?と以前から考えてきた。有機体であるニンゲンがその人固有の周波数を出しているのか、あるいは振動をしているのか、生物学的な意味では何かありそうな気もするが、専門家ではないので、それ以上はわからず、特に調べることもなく今に至っている。もちろんニンゲンがそういう波長をキャッチできる能力もないので、この「波長が合う」というのは一つのイメージの話であると結論付けざるを得なかった。

しかし、メアリー フォレットの著作を読んでいてひとつの有力な推論が生まれた。

生物学において、円環的反応と言う言葉がある。これは、筋肉が収縮するとき、ほぼ同時にその筋肉の感覚器官からインパルスが神経中枢に流れ、その中枢から運動性神経を通じてその筋肉に戻り、収縮が起こるということ。つまり、刺激を与えると反応が起こり、またその反応が新たな反応を起こすという原理だが、これを社会心理学に応用すると次のような話になる。

個人の活動は、その活動を引き起こす状況の生成を自ら促進しているからである。言い換えると、行動とは「主体」と「客体」を関係づけることではなく、両者の活動を関係づけることである。・・行動過程において、中心的な事実は、諸々の活動が相互に向き合うということであり、相互浸透するということである。(フォレット「創造的経験」第3章)

フォレットによるもう少し具体的な話では次のようになる。

Aが何か言う。すぐにBの心に1つの考えが生まれる。それはBの考え方であろうか、Aの考え方であろうか。どちらでもないのである。それは両者の考え方が混成して出来たものである。Aの考え方がBに提示されてまたAのもとに戻ってきたとき、元Aの考え方よりも少しまたは大きく違ったものになっていることにわれわれは気づく。
それはテニスのゲームのようなものである。AがBにボールをサーブする。Bはそのサーブをリターンするが、Bのサーブを返すプレイはB自身のリターンの方法と同じ程度に、Aがボールをサーブした方向にも大きく影響される。AはBにボールをさらに返すが、しかしAのリターンはA自身のプレイと、一番はじめのAのサーブに対してBが行ったプレイの結果のボールの方向からなっている。このように、結局、行為と対応行為は限りなく結合していくことになる。(フォレット「新しい国家」第2章)
最も根本的な考えは、反応は常に関係づけに対する反応だということである。・・・私はけっしてあなたに反応しているのではなく、あなたプラス私に反応しているのである。あるいは、より正確に言えば、それは、私プラスあなたあなたプラス私に反応しているのである。(フォレット「創造的経験」第3章)

しかも、この両者の関係づけは止まることなく、継続して変化していくことを重視してほしい。私とあなたそれぞれは反応を相互に継続することによって、毎回何かを「増していく」。これが複利法における「増分」である。両者がその会話の進展によって「成長」している。その成長分が「増分」であり、幾何級数的な拡大(つまり面積が広がるイメージ)なのである。

このように私とあなたのキャッチボールは一切静止することなく、常に変化しながら、成長していく。その際、それぞれの人は、相手の影響を受けながらも、その人の知性、経験、考え方、反応の仕方によってその人独自の成長となるはずである。そこで重要となるのは、その成長のスピード(変化率)、言葉を変えると「増分」の比率なのではないかと考える。

例えば、100キロのスピードの車は歩いている人から見ると、とても早くて何がなんだかよく見えないし、ついてはいけない。ところが、同じ100キロの車同士であれば、お互いに静止しているのと同じで、双方の車は変化しているが、その変化を実質的に感じない。あたかも止まっているかのように落ち着いて話ができるのである。50キロと100キロでもこうはいかない。

人と人の関係づけは、テニスのラリーやキャッチボールのように、常に動いており、変化している。従い、その変化率が近くない限り、静止しているような関係には絶対にならないのである。

長くなってしまったが、結論として「波長が合う」というのは、この変化率が近いということはないだろうかと思う。

変化率が近いと、会話の内容は充実し、誤解が少なく流れるようにスムーズに進む。それにより両者は成長する。それが複利となりお互いに会うたびにさらに成長する実感を感じるのである。

一方、変化率に大きな差があると、ラリーやキャトチボールはながく続かない。それ以前に会話を始めたらすぐに、何故かわからぬも、何とも言えない違和感を感じるのではないかと思う。

人と人の会話が、あるいは考え方の交換が常に両者の関係づけであるとするならば、この波長が合う合わないという感覚は、ある意味でたいへん効果的なシグナルである。波長の合わない両者が協働で何か創り上げるのには大変な苦労が予想されるだけでなく、その成果物にも期待出来ない、という気がする。これは私の推論だが、はたして言い過ぎであろうか。