悲しみの力(宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』を読んで)
僕は本を読んで「泣く」ということはあまりないのだが、宮沢賢治の作品には泣かされた記憶があり、とくに『銀河鉄道の夜』とこの『グスコーブドリの伝記』では泣いた記憶がある。。
大抵のお涙頂戴の作品には拒否反応を示す僕だが、なぜか宮沢賢治の作品には純粋に涙を流してしまう時がある。なぜだろうか。。?
『銀河鉄道の夜』もそうだが、この『グスコーブドリの伝記』も基本は「悲しい」お話である。
あらすじを簡単に説明すると、父と母、そして妹と幸せに暮らしていた主人公グスコーブドリの住む地域(イーハトーブ)はある年、飢饉に襲われる。
数年続く飢饉のためグスコーブドリとその家族も貧困に陥り、ある日父と母はグスコーブドリと妹を置いて夜逃げしてしまう。また妹も人買いのような男に連れ去られ、グスコーブドリ少年は一人貧困の家に取り残されてしまう。
その後、少年は「てぐす工場」や「沼ばたけ」などで様々な主人のもと、召使いのような形で働きながら食い繋ぎ、逞しさを身につけていく。
また召使い生活の後に街に出てからは、元々学問の才もあったため勉強をしながら「火山局」につとめ、飢饉の原因となった火山や肥料問題などの解決のために尽力する。
ただ物語の最後には、少年時代に経験した飢饉が起こりそうな事態にまた直面し、その解決のために、命を落としかねない火山での業務を進んで引き受けたため、グスコーブドリはイーハトーブに住む多くの人々の命と引き換えに、自らは命を落としてしまう。
あらすじだけで説明すると、もしかしたらありがちなストーリーのように感じるかもしれないが、宮沢賢治の作品の「悲しさ」は他とどう違うのか。。?
僕が思うにまず宮沢賢治は「悲しい」という感情のポジティブな側面に常に目を向け続けていた人のように思う。
人にもよるかもしれないが、私は自分が悲しい出来事に直面したり、悲しい感情の時にやっと、他人の悲しみに気付いたり、その悲しみへ寄り添う努力をしてみようと思える。
逆に自分が順調な時は、あまり他人に関心を示してはいない。。
そういう意味では「悲しい」という感情は、ある種の「広さと遠さ」をもった感情のように思う。逆に怒りや喜びは「狭く近い」感情という印象を僕は持っている。
宮沢賢治の作品の多くは「悲しみ」が個人的なレベルで完結せず、常にこの「広さと遠さ」持っているがゆえに、あの独創的な想像力溢れる世界観を作っているように思える。
「悲しい」というこの実に人間らしい感情は、常に僕の中では一番関心のある感情なのである。