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ホン雑記 Vol.137「筋書き」

いやぁ、壮絶な人生だった。
さっきNHKでやっていた「ファミリーヒストリー」での話だ。


その青年の名は、森内一寛。

彼の母方の祖父は、朝鮮に渡って食品店を営んでいた。その3軒隣が父方の営む米屋で、山梨出身の一家だった。
戦争を経て結ばれた両親は、小学生の時に離婚。父親がよそに女を作ってしまったのだ。彼は母親を助けるため、中学卒業後の集団就職で大阪の十三に降り立つ。当時「金の卵」と呼ばれた若年労働者のひとりとして、すし職人の見習いになった。
賃金の低さや、先輩にゲタで殴られるといった苦難から、1カ月ですし屋を辞めてしまう。それから17回もの転職を経たのち、親戚の強い勧めでフジテレビの素人参加型のど自慢番組に出る。
それが音楽プロデューサーの目に留まり、ハナ肇に芸名を名付けられる。

歌手「森進一」の誕生だった。


昭和43年、デビューからわずか3年目にして紅白歌合戦に出場。
その翌年、出場2回目にしてトリを務める。当時の紅白出場は、現在とは箔の重みがまるで違う。まさに順風満帆の歌手人生であった。

昭和47年、人生は一変する。
森の狂信的なファンである女性から婚約不履行、未成年者略取で告訴された。産んだ子を奪われ殺されたとの訴えに、鹿児島県警が殺人、死体遺棄の容疑で取り調べる事態にまで発展。
実際は、女の主張していた内容はまったくの狂言であった。

彼女がそうした妄想にとらわれるようになったのは、以前病気療養中の森の母を見舞った際に、お茶を出してもらったからというのがきっかけだった。
狂言を苦に、母は翌年に自殺。
森の全面勝訴が言い渡されたのは、皮肉にもその半年後のことだった。


自分のせいで母が逝ってしまった。自分のすべてであった母が…。
失意の底にあった森が歌手をやめようとしていたその時、新曲「襟裳岬」に巡り逢う。
その中の、
「日々の暮らしはいやでもやってくるけど 静かに笑ってしまおう」
という言葉が彼を救い上げる。

襟裳岬発表のその年、日本レコード大賞、日本歌謡大賞など多くの音楽賞を獲得し、紅白歌合戦では自身初となる大トリを務め上げた。

この襟裳岬との出会い以降、森の曲の世界は転換期を迎え、通常の演歌歌手にはない趣向を持ち始めるという。



まさか、歌手というものが、かように人生の波を縫うようにして歌っていたとは。毎年ヒット作に恵まれ、余裕綽々で過ごしていると思っていた。

よそに女を作った父親、ゲタで殴ってきた先輩、母親を死に追いやった狂信的なファン…。
はたして、彼の人生の物語に悪人は登場したのだろうか。

番組の最後に「おふくろさん」を歌う彼の、比類なき凄絶。
良いも悪いも全部飲み込んだその人生が茶の間に届く。きっとふたりの息子にもその圧倒的な表現の一部は沁み込んでいるんだろう。
そうしてまた彼らの歌も、それを藁と掴む人たちを掬い上げる。

因果な生き物だな、人間って。


森は転職を繰り返した時代を振り返り、こう語っている。

「僕は連続殺人犯の永山則夫と、よく似ていると比較された。
集団就職で都会に出て、居場所が見つけられなくて、転々としていた。
僕が永山則夫になってもおかしくなかった。
僕には、母がいたから、踏みとどまっていられた。」


森の母は、彼を2度産んだのかもしれない。




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