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雑記1022「DNAの外で」

さて、日々天才への階段を駆け上っているワシである。

最初に書いた「天才考」の記事では、「天才はあくまで性質であって、何かをなした後にもらえる称号のことではないんだろう」などとのたもうてみたが、天才になるのにオレは頑張っている。矛盾は、して、ない。


そこでは、いや、次の記事か、その中で「天才とは間違いの拒絶をし続ける者」であると勝手に決めた。簡単に言えば、細部に宿る神に誰よりも会いに行くことだ。で、それは誰にでもできる。
楽聖と呼ばれるベートーベンの音楽の点数を仮に、仮に100点としてみるなら、自分は50、いや、30、いや、5点ぐらいだとする。

やっぱムカつく。50にしとくわ。しょーもない謙遜してどうするんだよな。天才の赤ちゃんがよー。

で、誰でも、51点を目指し続けることはできる。いま何点であってもそこはどーでもよくて、在り続ける隣に行くのかどうかだけ。
ある日いきなり50点から55点になる時もあれば、何年も56点に届かない時もあろう。あろうって。なんだその文語調。

でも、それが無理でも隣に55.5点は控えている。それが無理でも55.01点は隣にある。必ずいつも隣に部屋がある。
その扉を開け続けることをやめようともしない者、それが天才であろう。若い頃はライバルは自分ってのが意味わかんねー精神論だと思ってたけど、なるほどと最近は思う。その道のトップは、イチロー言うところの自分の中の秤しか見てない。

で、オレはダウンロード型の天才だ。自分だけではあまりにしんどい。これは美輪さんが言ってた「自分の中にはいままでの先祖の細胞が詰まってる。何億、何兆…。それをもってことに当たるのよ」って感じのことに影響を受けてる。言ってたかどうかはしらんが、そんなような感じのことを言ってた。はず。

角度を変えれば、それに気づく者が天才であろう。自分はひとりではない。先祖代々のあらゆる才能がこの身に詰まっている。


いかん、前置きが長すぎた。これ前置きやねん。
で、最近の大ダウンロードさんが、瞽女さんである。「ごぜ」と読む。かつて三味線を手に、村々を歌って歩いた盲目の女性旅芸人のことだ。
その時代には按摩さんか瞽女になるしか盲目の女性の生きる道はなかった。歌わないと生きていかれない人たち。
最後の瞽女であった故 小林ハルさんは、好きな歌も思い入れのある歌もないと言う。が、旅先で喜ばれる歌ならすぐに思い出す。そうしてレパートリーも増やしていく。飽きられたら食っていけない。

オレは瞽女とは真逆に、自分の結晶たる自分の思い出を歌にして遺したいと思っている。が、これはわがままではない。欲望の先っぽの先っぽでは、個と全は溶け合うからだ。瞽女の生き様に「何をやっとんのか、ワシは」と思うのもその証拠だろう。いや、証拠なんか別に提示する必要もないんだけどな。
それに本当の欲求はその先にある。いまはまだ恥ずかしくて言えない。が、明日ここに書いてる可能性もある。


うーん、書く必要のないことをまた書いちまった。
どうも自分で思うだけより、自分で書いた文字を見たほうが自分ごとになるんでのぅ。




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【今週のオリジナル曲】

新曲の卒業ソングです。聴いてね('ω')ノ
ご卒業のダブルミーニングやー。




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