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ホン雑記 Vol.220「また引き寄せっぽい話」

前に書いた詩の中でも出てきたけど、我々はみんな優勝者である。
数千万~数億分の1の確率で勝ち抜いてきた。


凡人とオリンピアンの間には雲泥の才の開きがある、と思っていた。
凡人であれば、何かのスポーツでクラス1位になることはすごい出来事。班分けして、4~5人中の1位ぐらいならなんとか… というのが平均値あたりか。
クラスを超えて学年でトップ。市内でトップ。県内。国内。そして世界へ。
数十分の1の確率が幾度も繰り返されて、才能のトップの数はエベレスト山頂に立てた針の先ほどのイメージになる。

でもこれ、ホントにそうなのか?
そんな奇跡的な数字をくぐり抜けた人たちの物語なのかな。
運動センスはないし、一芸に秀でたこともないんだけど、たとえば同じような確率(クラス1位と、県の代表が1人の時の全国1位など)であれば、トップに上り詰めるエネルギーは同じぐらいではないのかという突飛な論を思いついたのだ。
麓からの確率は当然雲泥の差なんだけど、そこを基点にするのはどうなのかと。石井慧みたいな上級者には「クラスと全国と一緒にすんな!」と怒られそうだけどね。
同じぐらいのエネルギーだとするなら、世界一までの道のりが遥けき彼方に霞んで映るのはなぜなのか?


マラソンの高橋尚子は積水化学に在籍中、小出監督に「Qちゃんは世界一のランナーになるよ」と言われた時、「とうとう監督は頭がおかしくなってしまった」と思ったという。
その時の彼女は積水化学の中でも3番手。世界一など視野にすら入っていない。朝の練習にいつも酒のニオイをさせてくる監督なので、二日酔いどころかまだ酔っぱらっているんだと思った。

ところが、監督は一貫して「Qちゃんは世界一になる」と諭し続ける。彼女の心にわずかな「あれ?」が芽生える。「本当なのか?」と。
浴びせられ続ける監督の言葉に、「世界一になる人間は、こんな練習でいいのだろうか?」と、世界一の人間の意識が萌芽しはじめる。そして世界レベルの練習を意識するようになる。結果はみなさんご存知の通りだ。

あまり表には出ないが、小出監督という人は酔っ払いでありながらも天才であったという。
まだ、女子のフルマラソンは過酷すぎではないか? という声もあった1965年、「必ず女子マラソンが普通に行われる日が来る」という先見の明を備え、世界のデータ集めに尽力していたという。
他にも、選手の顔と肌ツヤを見れば、本人以上にその日のコンディションを見抜く目もあった。



いまから持論の説明に持論を用いるのでアホだが、つまり「同じような確率であれば、トップに上り詰めるエネルギーは同じぐらいではないのか」と、完全に信じこんでいればそうなるんじゃないか? ということなのだ。


最近どんどんそんなイメージが強くなっている。
オッサンだけど、大きくなったら何になるのかなぁ~。




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