僕のメンターシリーズ3「ニール・ドナルド・ウォルシュ」
ども。超ひよっこブロガーのでぽろんです('ω')ノ
みなみなさまの手で立派な鶏に育て上げてください。
さて、今回も僕が影響を受けた人生の師とも言える方を紹介していきます。
シリーズ第3弾は著作家「ニール・ドナルド・ウォルシュ」氏。
彼は神と話すことのできる人間です。
いやー、ちょっと待ってー。踵を返さないでーーー。
きっと大丈夫です。夢物語だと思って読んで頂ければ。洗脳とかしませんから。まぁ、見る人から見れば胡散臭い人が続きますがご容赦を。
ニール・ドナルド・ウォルシュ。1943年アメリカ生まれ。37カ国語に翻訳され日本でも140万部を超える人気シリーズ「神との対話」の著者。
彼との出会いは、僕がまだバリバリの自宅警備員だった頃の話。
ヒマを持て余していてお金をまるで持て余していなかった僕は、割と図書館を利用していて、音楽関係の本や画集や理数系の本をよく借りていました。
いつもは通り過ぎるようなジャンルの棚をふと見て、多分「神との対話」というタイトルに惹かれて手に取ったと思います。
パラパラとページをめくってみると、ゴシック体と明朝体で繰り返される対話方式の文章に目を奪われました。
ゴシック体の語り手は、本のタイトルからも分かるように「神」でした。
最初、フィクションの類かと思ったんですが、どうも著者はマジらしいぞと気づき始めました。猜疑心の塊でパラパラと斜め読みしていると、
「あなたたちの寿命を決めているのは、あなたたちだ」
というようなゴシックの一文が目に留まりました。心のどこかで「へーぇ」とでも思ったんでしょう。他にも、
「コメディアンの中に神の化身がいないなどとどうして思う? もっと崇高な職業に就いていると思ったかね?」
といった箇所があって、内容の真偽はどうあれ「よくひとりの人間の脳からこの内容が出て来たな」と思わされました。物語として読んでも全体の辻褄が合ってるんです。
「神との対話1」より、「これはっ!」と思ったいくつかのやりとりを勝手に抜粋して紹介していきます。(太字が神の言葉で、その他はウォルシュ氏の言葉です)
最初はこんな感じで始まります。
1992年の春、驚くべきことが起こった。神が私に語り始めたのだ。私を通じて神は語った。説明しよう。
その頃私は、私生活でも仕事面でも苦しんでおり、不幸で、どちらを向いても自分の人生は失敗だと感じていた。以前から何か考えると手紙を書く癖があったので(書くだけで投函はしない)、気持ちを吐き出してしまおうと、いつものように便箋を取り出した。
この時は、もっと奥にある根源に直接思いをぶつけたかった。最も偉大な相手だ。私は神に宛てて手紙を書こうと考えた。
どうして、私の人生は上手くいかないのか。上手くいくためには何が必要なのか。どうして、私は幸福な人間関係を結べないのか。どうして、いつまでたっても金に困り続けていなければならないのか。そして最後に(これが一番大きな質問だったが)こんなにもがき続けなければならないなんて、私が一体何をしたというのか。
驚いたことに、回答の無い苦々しい質問を書き終えてペンを放り出そうとした時、ふいにペンが勝手に動き始めた。何を描こうとしているのか、予想もつかなかったが、私はともかく手が動くのに任せた。すると…
あなたは本当に、すべての答えを知りたいのか、それとも八つ当たりをしてみただけなのか?
私は目をしばたたいた。突然、返事が浮かんだ。私はその返事を書き記した。こうして、気付いた時には対話が始まっていた。
この口述筆記は3年も続いたようですが、最初はウォルシュ氏本人も信じられなかったと言います。
ここからは神の言葉の列挙になります。こう書いてるとすごく宗教臭いなぁと自分でも思います。ついて来てください。
私はあなたとのコミュニケーションの手段に「感情」と「思考」と「経験」を使う。言葉はただの音に過ぎない。シンボルでしかない。
皮肉なことに、あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、経験をないがしろにしている。経験をないがしろにするから、神を経験してもそれが神について教えられていたことと違うと、たちまち経験を捨てて言葉のほうを選んでしまう。
ここでウォルシュ氏の神の言う「言葉」には、他の者が、信じてもいない神を騙ってその神にしゃべらせた言葉も含まれるのでしょう。例えば「聖戦」とか。
僕は個人的には、親や先生の言うことは聞くものじゃないと大人になる前から思ってました。尊敬はしますけど。
その「言うこと」も、ここでの「言葉」に当たるんでしょう。感情や経験の中に答えがある、そう神は説いてるのだと思います。
自分の感情をないがしろにする人ほど、他人の言葉を聞き入れてしまいます。
これが本当に神からのコミュニケーションだと、どうして分かるのですか? 私の想像の産物かも知れないじゃないですか?
たとえそうでも、それがなんだと言うのか。私なら、あなたの想像を通して働きかけられるとは思わないか。
あなたが自分で考えたのではこんなに明快に語れなかったと考えれば、これが神との対話であることが分かるはずだ。様々な疑問について、自分でこんなふうに語ることができたなら、今さら問いかける必要はなかっただろう。
(中略)
私が教えられてきた神についての真実は、あなたから来たものではないのですか?
誰がそう言ったのか?
他の人たちがです。
他の人たちとは?
指導者たち。聖職者たち。賢者たち。僧侶たち。それに、そうだ!
聖書です!
それは権威ある根拠ではない。
権威ある根拠ではないんですか!?
そのとおり。
では、なにが権威ある根拠なのですか?
自分の感情に耳をすますことだ。自分の最高の思考、経験に耳を傾けなさい。それらが教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉のほうを忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、最もあてにならない。
僕のバイブルを1冊挙げろと言われたら迷いなくこの本を挙げますが、この本を手に取って読み進めていくうちに傾倒したわけではありません。
それまでになんとなく遊びで(たまに真面目に)考えていた、「神とは何か?」と言った漠然とした自分の中での設定を、ことのほか上手に言語化してくれていたのがこの名著だったのです。
あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたがた、そして生きとし生けるものすべての目的は、「できるかぎりの栄光を体験する」ということだ。
この目的の素晴らしいところは、決して終わりがないことだ。できる限りの栄光を体験出来たら、その瞬間にもっと偉大な栄光を想像するだろう。
最高の秘密は、「人生とは発見ではなく創造のプロセス」だということだ。
だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意しなさい。
人生とは学校のようなもので、何かを学ばなくてはいけない、そういう人がいます。この考えは正しいのですか?
それも人間の経験にもとづいた神話のひとつだ。
人生は学校なんですか?
いや。
何かを学ぶために、生きているのではないのですか?
違う。
それでは、なんのためにこの世に生きているのですか?
自分が何者であるのかを思い出すため、そして創り直すためだ。
私は何度も何度もくり返し語ってきた。だが、あなたがたは信じなかった。
それはそれでいい。あなたがたが真の自分になぞらえて自分自身を作り出さなければ、真の自分にはなれないのだから。
ちょっと待ってください、分からなくなりました。人生は学校かと言うところまで戻りましょう。大勢の教師に、人生は学校だと聞かされてきました。
学校とは、知らないことを教わりに行くところだ。すでに知っていて、「その知識を体験したい」という時に行くところではない。
人生とは、概念として知っている事を体験的に知る機会のことだ。何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。
よく、分からないのですが。
説明しよう。「魂」は知る必要のあることをすべて知っている。だが知っているだけだ。魂は体験したがっている。
自分が寛大であると知っていても、体験しなければ概念にすぎない。
親切であると知っていても、誰かに親切にしなければ、自意識があるだけだ。
自らの偉大な概念を、偉大な体験に変えたい。それが魂の唯一の望みだ。
これは少し分かるような気がします。
僕は中学生の時分に、ちょっと悪さをして自分が怒られたくないがために、卑怯なマネをしたことがあるんですが、この体験を経てしまったがために、自分という概念は「卑怯者」になってしまっています。今でも割とこびり付いて剥がれないでいます。
きっと誰もが、生まれた時に善も悪も「知」としては等しく持っていたんでしょうけど、体験してしまうことで本物になってしまう。それを知っているからか、僕はあまり悪人を責められないとこがあります。
「こいつはきっと、オレがたまたまやらなかった悪事をやっちゃっただけなんだなぁ」と思うんです。だからといって、それを良しとすることとは全く別ですけども。
創造者が「創造者である自分」を体験する方法はひとつしかない。それは創造することだ。そこで私は、自分の無数の部分に、全体としての私が持っているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたの宗教で「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは一部で言われているように、物質的な体が似ているということではない(神は目的に合わせて、どんな姿にもなれる)。
そうではなくて、本質が同じという意味だ。私とあなたがたは同じものでできている。私たちは「同じもの」なのだ! 同じ資質、能力を持っている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。
私があなたがたを創造したのは、神としての自分を知るためだった。あなたがたを通してしか、知る方法がなかったからだ。したがって、あなたがたを創った目的は、あなたがた自身が私であることを知らせるためだった。
そろそろついて来れない人もいますでしょうか。
僕はスピリチュアルな話は大好きですが、いわゆる「スピ系」の人は大の苦手なので、自然の摂理と照らし合わせて理に適っているのか? を考えるようにしてます。もちろん独断です。
魚の腹が白かったり、ハエトリグサが2回の刺激で葉を閉じたり、鱗翅目(蝶や蛾)に眼状紋があったり、花の蜜が甘かったり…
それこそ無限の「意志」があって、その目的通りに姿を変えています。一体何者がなんのためにやっているんでしょうか?
ちなみに、生命の進化が「突然変異」と「自然選択説」のみにて行われていると本気で信じてる科学者は皆無、という話を聞いたりもします。
「神との対話」は、割と厚めの本で10冊ほどのシリーズものになっています。ここに挙げたのはその1冊目の、始めの6分の1ほどに過ぎませんが、この言葉たちの出どころの真偽はどうであれ、自分の人生のよすがとなるものがあるなら、そばに置いておこうと思うのです。
最後に、ウォルシュ氏の神の言葉の中に、美しい物語のような文章があるので、それを掲げて終わることにします。
ではまた('ω')ノ
かつて、自らが光であることを知っている魂があった。それは新しい魂だったので、体験したくてならなかった。「私は光だ」とそれは言った。
だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても、体験にかえることはできない。この魂が生まれた領域には、光しかなかった。どの魂も偉大で、どの魂も素晴らしく、どの魂も私の神々しい光を受けて輝いていた。
そこでは、その小さな魂はまるで太陽の前のロウソクのようだった。偉大な光の中では、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない。
その魂は自分自身を知りたくて知りたくてたまらなくなった。あまりに知りたがるので、ある日私は言った。
「小さき者よ。その望みを叶えるにはどうすればいいか、分かるか?」
「どうすればいいのですか? 神さま。私はなんでもします!」
小さな魂が答えた。
「お前は私たちから離れなければならない」
と私は言った。
「そして、闇を求めなければならない」
「聖なる方、闇というのはなんですか?」
「それは、お前ではないものだ」
と私は答え、その魂は理解した。
そこで、その魂は全体から離れ、別の領域に行った。そこでは、魂はあらゆる闇を体験する力を持っていた。そして、闇を体験した。
その闇のさなかで、魂は叫んだ。
「父よ。父よ。どうしてあなたは私を見捨てたのですか?」
あなたがたが暗闇にいる時のように。
だが、私は一度たりともあなたがたを見捨てたことなどない。
いつもそばにいて、あなたが本当は何者なのかを思い出させようとしているし、いつも我が家に呼び戻そうとしている。
だから、闇の中の光になりなさい。そして、闇の中にいることを呪ってはいけない。また、周りが自分と違うものばかりでも、自分が何者であるかを忘れてはいけない。
そして創造物をほめたたえなさい。たとえ、それを変えたいと思っても。
最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。あなたが生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいかという宣言なのだから。
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