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ホン雑記 Vol.189「思い出の中にヒントがあるかもねかもねそーかもね」

前に話したことの繰り返しになるんだけど、もっかい、というか何度も自分では反芻してることなんで、まぁちょろちょろ似たようなことは出てくるかも。


オトンが死んだ当初はすんごい落ち込んでたわけで。いまんとこ人生の凹みレベル歴代ランキングNo.1のできごとだわね。

でまぁ、いろ~んな本を読んだりしたものさ。良さげな映画とかね。そうそう、ジョディ・フォスター主演のSF「コンタクト」。これは良かったなぁ。愛する人の死によって隔てられた世界に、もしかして手が届くのではないか? そう思わせてくれる映画だった。


まぁそこは枝葉の部分なんだけど、オトン後にオレがほぼ自動的にやってるのが、子供のころにやってたことをやるってこと。やってるばっかだな。

簡単に言うと、小学校の時の時間割通りに過ごすとわりとええでっせ、って話なんだな。
板書を書き写したり、鉄棒やったり、絵を描いたり、笛吹いたり、そろばんはじいたり、植物育てたり、休みの日に自分で弁当作って家で食べたり、授業中に手紙回したり… はできないんでそんな妄想してみたり。

そんなに落ち込んでない時でも、大人になったいまは「なんだかなぁ~」、「子供のころは良かったな~」なんて四六時中思ってるような人にはオススメ。

昔やってたことを、いまやってないから上手くいかない、なんてことが多々あると思うのだ。
で、いま挙げた時間割でもそうなんだけど、「これをやったら落ち込みが減りそうだ」なんつって意味なんか考えてたらダメ。

それはたとえば、やりたくもない毎日のトイレ掃除だったり、みんなの前で歌わされる音楽の授業だったり、ルールも分からんバスケや野球をやらされることだったり、修学旅行の風呂だったり、「好きな者同士で自由にペア作れ~」だったり、みんなが掃除してるのに残しちゃいけないから給食をひとりで食べさせられてることだったりっていう、イヤ~なことのどこに子供のころのハツラツさの土壌になることがあったのかは分からないってことなんだな。
意外とそういう一見マイナスのできごとの中に織り込まれてると思うのだ。

中学の時の授業中、隣の席の友達が自作のオバケっぽいキャラクターを描いて見せてきて「オバピー」っていう名前なんだって言われたから、そのまんまやんってんで、ふたりで腹よじれるぐらい笑ったことがあった。
見かねた先生に前に呼び出されて、ふたりともビンタを見舞われるんだけど(時代だねぇ)、もうこっちはかつてない抱腹絶倒を抑えてきてるんだからそんなもんで笑いが止まるわけもなく。(これそもそもなんで怒られてるの? オバピーやん)なんて思ったらそれも火に油。
先生のほうも、こっちの笑いが止まるまで殴り続けるわけにもいかないんで「もうええわ、席戻れ」ってことになるんだけど…

あれ、これなんの話だったっけ。
あぁ、そうそう、まぁ要は大人になったらみんなの前でメチャクチャ怒られるとかトラウマでしかないし、ビンタ飛んでくるなんて状況はイヤすぎるんだけど、そういう得も言われぬ感情の機微の中に「いまこの瞬間を生きる」エッセンスみたいなものも結構入ってんじゃないのかと思うんだな。
体罰OKって話じゃ全然ないですよこれ。



で、これって逆も結構あるんだと思う。
一見プラスに見えることが、地獄の一丁目だなんてことが。

オレと同世代の男の子クンは、最初○○gleとか○○○○hubなんか出てきた時「なんて素晴らしい世界だ! What a Wonderful World!」って狂喜乱舞したと思うんだよね。なんつってもタダだし。

でもそれが自分にもたらしたものを振り返ってみると、なんてクソみたいな世界だったんだと気づく。命の時間を使って、どれほどの命の素を殺めてきたのか。何を言うとんねんワシは。時間だよ時間。
それと精神も蝕まれていってる。知らず知らずのうちに。こんなふうに。

そういうわけで、最近断捨離に目覚めようとしてるってわけ。目覚めはじめるという大偉業を、そろそろスタートさせてみようかっていう予定を立てるつもりでいる夢を見たってわけ。


あー、スマホとPC割りたい。




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