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ホン雑記 Vol.655「大海には程遠い」

昨日初めて知ったNHKの「no art,no life」っていう番組の一挙放送をやっていた。
普段は5分だけの番組みたいだけど、それを一気に3時間ぐらいまとめて解放してた。チラッと見るつもりが夜中の3時半まで観てしまった。めちゃくちゃ面白かった。


まさにタイトル通り、「芸術なくして人生なし」みたいな人ばかりが出てくる。オレみたいなハンパな自称芸術家にとっては見てるだけで落ち込んでくるようなホンモノのツクリテばかりだ。
そのほとんどが知的障害を持つ人にスポットが当たるんだけど、ずっと見てるとゲシュタルト崩壊とでも言おうか、障害という言葉に違和感を覚えだす。そもそも以前から覚えてたんだけど、余計に抱きはじめた。

最近も小林正観氏の「イラッとさせる人はいない」のことを書いたけど、それと同じで、いわゆる障害を障害と思う人がいないコミュニティの中では障害者という概念すら存在し得ないのだと思った。
障害者とは、他者との最大公約数値が高い人間のあきらめが生み出した後天的な概念、だと思う。

最大公約数とはそのままの意味で、他者との共通項や、持ち合わせる常識(固定観念)が多い人ほど、社会からの融通が利く人間だ。良く言えばどこででも使える汎用性があるけど、逆に言えば「あなたじゃなくてもいい」。
そういう人は世界の平均点に近いんで、どうしたって「そんなの普通わかるじゃん」と思う回数が人生中に増える。これはこの人が良い悪いの話ではない。オレだってたまに言うし、嫁にはさらに言う。
この平均値に近い人を、健常者と呼んでるに過ぎないのだという感覚が強まった。どっちかというと平常者、平坦者とでも呼ぶべきものでしかなく、健やかなどと思い込むなよと、オレは世間とオレに思った。


夜中に「すごい」を連発しながら観てたけど、特に印象に残った人がいた。

たしか60代ぐらいの障害者グループホームで生活する男性だったと思う。
この男性は、タコ糸で作った毛玉糸のようなものを延々と作り続けている。見ると紐には結び目がいくつもあり、金属製でないことと、結び目同士の間隔がやたらと狭いことを除けば有刺鉄線のように見える。
結び目を作っては余った部分をハサミで切り、また残りの紐と結んでは切り、を延々と繰り返す暮らしだ。

最初この男性は、紐で何かを縛るという作業を任されていた。その作業中に紐が絡まることがあって、そういう時はハサミで切ってください、と教えられていた。
ある時、職員が特に絡まってもいないのに紐を切っている男性に気づいて「絡まった時だけ切ってくださいね」と諭した。が、その場では「テヘヘ」とごまかしてやめるが、何度言っても切る。男性にとってはどうしても切りたいもの、切らないといけないものらしい。
そのうちに職員たちは「これってそんなに切ったらいけないもの?」と揺らいで、以降その男性は結び目のある紐を延々と作る人になった。

男性は「今日はここまでやらないといかん」というようなことを呟いた。そのひと言はオレに猛烈な羨望と嫉妬を体験させた。
オレは優れた経営者やアスリートや芸術家(アーティスト)を同じフォルダに入れて見てるとこがあるけど、オレが喉から手が出るほど欲しいのはこの男性の「やらないといけないことになっている」という圧倒的盲目的な意志だ。わりとなんでもそつなくこなせる(つもりでいる)フツーなオレが、何より欲しいものだ。

「TED」で有名になった、ふたり目が世界を変えるという「セカンドペンギン理論」があるが、「切ったらいけないの?」と職員を変節させた強烈な意志はまさにそれを思わせるのだ。個人的にはこれほど美しく、かつ憧れる強固な力はない。

グループホームで文字通り連綿と有刺紐玉を作るこの男性の暮らしは、生産性云々をのたまっていた政治家にはどうやったって汲み取ることはできないだろうな、としみじみと思った。
憎らしく思うこともあったけど、彼女だって時世の生み出した徒花とも言える。彼女がどう頑張ったって汲み取れないのは、もはや本人にもどうしようもない。子供の頃には解かっていたはずのこと、なんだけどね。
偶然に感謝するしかないけど、ユニークな人たちがそのこだわりから集め、作るものたちが、オレには子供の頃のどんぐりのように珠玉に映ったんでそれはホントに有り難いなぁと思った。


出演者である滋賀県立美術館館長の保坂健二朗氏が、「芸術とは」を見事に言い表していた。
それは、「電話中の落書き」と同じものだという。

めちゃくちゃ納得した。芸術は意味があるのかないのか、狙うものなのか天衣無縫のものなのか、自分の中で芸術論を戦わせてきたけど、これなら説明できる。

意味はなく、かつ、あるのだ。

固定電話を使わなくなったいまではなかなかあの感じにならないけど、何も考えてない頭で書いたはずのものが、あとで自分で見ても「なんだこれ」と思わせるような法則性がある。あれはたしかに不思議だ。
伝え手と受け手をひとりでやっているようなもので、自分で何かしでかしといて「え、なにこれ」って思うのは、まさに「降りて来た」時の感覚に近い。いうても1回しか降りて来たことないけど。



昨日の番組を観てつくづく思ったのは、平常者だけが集まって拵えた社会の観念って、ホントに世間知らずなんだなぁ、ってことだ。

生産性が高いのかどうかは置いといて、ずいぶんと「サボって」生きてるようには思えた。




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