見出し画像

ホン雑記 Vol.575「結局幸せな悩み」

むぷ。むぷぷぷ。
「オリジナルの鍵盤奏法を確立してやるぜーっ」と意気込んでから何年か経ったけど、最近その奏法が上達してきた。


と書くと、何年も頑張ってるように見えるかもだけど、実際は何年もほっといただけ。ここ数日鍵盤と多く戯れるようにしてるんで、普通に普通の上手さが上がってるだけかもしれない。

「ピアノ ○○奏法」でググッても出て来ないし、こういう発想はたぶん世に無いんだと思う。それか、出て来ないほどどうでもいいことなのか。
たとえば今「ペン回し 無呼吸」って打ってみたけど、やっぱそれっぽいページは出て来ないんだよね。その技術に誰も興味ないわな。それと同じでそれほど世の中的にはどうでもいいやりようなのかもしれん。

で、冒頭の「むぷ」だけど、これが至高の喜びの漏れ出た音なのさ。ただの嬉しいじゃーないのだよ。今生きてて一番の「ニターーーッ」だと思う。
この瞬間に世界はきらめき、すべての不安から解放される。これを超える喜びはこの世界の中にない。言い切る。
ひとつあるとすれば、焦がれに焦がれたひととの恋が実ることぐらいだろう。ほな超えるのあるやん。
いやいや、でもホント、そんぐらいデカいんだ。世界がきらめくってところは全然マジだ。


漫画『バキ』シリーズの板垣恵介氏が、空手家・中村日出夫が垂木切りを成功させた時の話をインタビューしていた。
垂木は一辺5cmぐらいの角材だったと思うけど、それを折るのに若い頃3年の修行を費やしたと。はじめて折れた時は「もうなんっっっとも言えん!」ほどの喜びだったという。
板垣氏は、中村日出夫が天才だとするならその才能は空手の才ではなく、いまだ誰もやってないことをやれる日が来ると3年間疑わなかったことだ、と評している。

そう。おこがましいが、今の自分を中村日出夫になぞらえている。ってか、練習のたびに毎回思い出す。そうしないとやってられないから。
で、昨日なんとか「ニターーーッ」とするところまできた。脳のシナプスのつながりが最も早く行われるやり方を模索しながら(これ文章にすると大層だけど、きっとやってることは普通。自転車乗れるようになった時のほうがよっぽどつながってるだろう)。

で、これすんごい幸せな話に見えるじゃないですか。見えててください。
が、結構これがそうでもなくて、光が強いと影も強いっていうか。


そもそも、こんなオリジナル奏法にこだわるってのは、ま、偏屈でしかないわけさ。当人は「これは偏屈じゃない。王道であり隙間だ」と、100%純粋に勤しんでるんだけど、そういう発想に至ること自体が偏屈な脳ミソからしか出て来ないと思うんだよね。

で、出て来ない真っ当な人間に対して「なんで出て来ないの? お前ら金太郎アメなの?」なんて斜に見るんだけど、よく考えたらそういう思想って、人を馬鹿馬鹿言ってるあの嫌いなひろゆきと同じじゃねーの? なんて思ったりもしてる。その思想が自分でもすんごくイヤだと思うことの救済措置なのか、その分だけひろゆきを嫌いじゃない分子もオレに入ってる。

その他に、こっちサイドの感覚を嫌いな人間の感覚も入ってる。それは常識や世間体が好きな人の感覚だろう。
で、中学ぐらいからそんなところを「そんなもの」と思って生きてきた自分ではあるつもりなんだけど、4割ほどは常識人な部分も当然あるので、オレに反発してるオレもいる。

あー、長くなって来た。ひとことで言えたわ、これ。
つまり、「ところでその奏法、なんか意味あるの?」と、メインのほうのオレが、その常識人サイドのオレにいつか諭される日が来るんじゃないかという恐怖も「ニターーーッ」と正比例してるってことなんだな。

これは昨日「ニターーーッ」となって初めて気づいた。やってることはまるで、うつ病でもないのに「オレはいつかうつになってしまわないだろうか」と恐れてるのに近い。こんなバカな悩みがあるのか、と思う。
いちいちいちいち、幸福感を味わうオレの足を引っ張るオレが出て来る。クッソウザいわー。



と、ここまで書いて、これも普通のことだなと、今また思った。
「杞憂にすぎない」のだ。

しかも杞憂って、「すぎない」までわりとセットで付いてくる。
えーーーっ、こんだけイヤな気分になったのにーーー? これが杞憂にすぎないってーーー? ウソでしょーーー?

これがホントなの。だから自分が通り過ぎると、若い子に「何も失恋ぐらいで死ななくても」なんて思っちゃうんだろうな。忘れ切って。

自分の悩みも小さいのだ。結構。




サポート大歓迎です! そりゃそうか!😆 頂いた暁には、自分の音楽か『しもぶくりん』への「やる気スポンサー」としてなるべく(なるべく?)覚えておきます✋ 具体的には嫁のさらなるぜい肉に変わります。