ホン雑記 Vol.525「世界の縮図が家庭なんじゃなく、家庭の展開図が世界なんです」
オレは「この出来事は世界にいったい何を問われているんだろう」という考え方をよくする。
そういう観念のまったくない人から見たら、ミョウチキリンな発想に思えるのかもしれない。
オレがそこに至ったのは、その考え方をするのが一番ラクだからである。つまり万物に意味があると思ってるのだな。
意味などないと言う人の共通点を見つけたけど、まぁそれは書かんとこ。自然とディスりになるしな。いや、ならんか。まぁでも万人に共通かはわからんので、とりあえず書かんとく。ほな書くなよ。これを。
ウィルスの蔓延、独裁者の侵略、白昼の凶弾…。
(ウィルスについては因果関係になく、その後の人々の対応においてだが)
問われてるのは「他者も自分だよ?」ではないか。慈愛が足りてないですよと。
何も理想論や精神論を語ってるわけではなく、普通に考えたらそうだろと。だから軋んできてるんだろと。そう思うのだ。
その軋みはやっぱりネットの台頭が発端だろう。特にSNS、それから分散的なシステムを求めて、凡百の徒が皆一様に分不相応な万能感を得た。
自分の問いはいつでも答えられるべきだと思い、医療にミスがあってはならないと思い、真実はすべて明るみに出るべきだと思う。いや、思い上がる。
誰もがしゃらくさくなってしまった。
真実でさえあれば尊い。そんな歪んだ発想だけが残ってしまった。万能感のわりになんとも御座成りな思想。
その結果が、事実をブチまけるだけの薄汚い人間を政治の世界に上げてしまった。逆に、居ても立ってもいられず心に従って長い歩みを見せた人をはじいてしまった。
自分らで考えなく選んでおいて、この先もすべてを政治家のせいにする。狂ってるとしか思えない。
50年前はパンピーが真実にたどり着くなんてことはなかった。可愛らしく巨人・大鵬・卵焼きしてればそれで良かったのだ。
手に余る文明は、ある意味「真善美」のうちの最初にたどり着いたのかもしれない。安い「真」ではあるが。
世界が我々に問うてることの具体は、「美」ではないのか。オレは最近特にそう思う。
事実だからと、芸能界の闇をブチまけるあの薄汚い(汚い表現を失礼)顔に、やはり美はない。あの行動が世のため人のためになるのだろうか。
「誰それのけしからん行動をやめさせたい」。これは「善」のうちに入るだろうか。が、善など測りようもない。偽善どうこうの論も無意味だ。
が、「美」は違う。各人が綺麗なもの、好きなもの、敬いに値するものを追いかければそれだけでいい。
それだけやっていれば「あの人はおかしいと思います」や、素性も知らせずオンラインで人叩き、「国葬をやめないと子供を誘拐するぞ」などのバカげたことに、残された命のロウソクを浪費しようとは考えもしないだろう。
なのに、嫌いなものを見て目に映る世界を自分で汚して腐っていく。正気の沙汰とは思えない。気持ちは痛いほどわかるけどな。
だから技術が要るんだよ。愛や美にはそれを行う技術が要る。そもそも天使のような心根で生まれた人間などいないのに、自分には無理だと考えも…いや、一瞬も思いもしないで、人を巻き込んで人生を終わらせる。
明らかに愛の教育不足を感じる。
自国を含む2カ国の国旗を掲揚する時、国際儀礼的には自国の旗を上位(向かって左)に掲げるのがオーソドックスだ。
が、この国は相手国国旗を上位に掲揚する。オレにはそれがただただ美しく映る。「もうちょっとシャンとしてくれよ、日本」と思うのとはまったく別に、それは世界中に誇れるもてなしであると思う。それは弱さではない。
美は、誰かが遠くで悠長におこなう道楽ではない。なくてはならず、今我々のそばからしか生まれないものだ。
自分が接する人に、芝居でもいいから少しでも優しくできたら、いつかどこかで何かが変わるかもしれない。