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ホン雑記947「分断の錯覚」

京アニ事件の裁判記録の記事がヤフニュかなんかで上がってくる。シリーズものになってるらしい。


うん、長くなる気がしたんでいきなり端折ろう。時間もない。

青葉被告が秋葉の加藤死刑囚の名を出した時にもまた思った。
「自殺的他殺が増えているな」と。

それを見て少なくともオレは、おそらくは我々は、こんな思考経路をたどる。

相手は行動原理がまったく理解不能なサイコパシーな狂人ではなく、やぶれかぶれで逆恨みな思考が、まったく理解不能な狂人というよりかはいくらか理解できるがゆえに「勝手にひとりで死ねよ」に行き着く。

これは恐ろしい悪の伝播だなと思う。普段、善悪は存在しないとか言ってるオレだけど、それはこの際置いといて、なんとも恐ろしい悪の「引き出され」だと思う。
犯人の行動原理を知ってしまったらもう、「勝手にひとりで死ねよ」と強制的に思わされる。

その時我々は確実に間違っている。

誰かを殺めたあとで、ではなく、最初からひとりで死ぬのを選べ…
つまりそれは苛立ちながらも「願い」であるわけだが、そんな「if」を望めるぐらいなら、犯人に「勝手にひとりで死ねよ」ではなく、「当人も含め誰も殺めるな」と思えばいいはずだ。
なぜいろんな「if」のパターンから、犯人だけが都合よく死ぬパターンだけを抜き出してそれを願うのか。

つまり、それはもう我々の思考が、純粋に人に対して「死ね」と言っている。そこに正義はない。
もうすでにやられてしまった遺族の怒りを借りてその願いが生まれるわけで、そこで「当人も含め誰も殺めるな」つまり「この事件自体起こるな」と思うことが難しいのはわかる。オレも何度もそう思わされてきたからだ。

が、それでも「勝手にひとりで死ねよ」は、赤の他人の死を怒りによって望むことで、それはその前に起こった事象のいかなる条件にも関係ない。
そのことが視えないというのは、ホロコーストにおける強制収容所の指揮官アイヒマンが「私は命令に従っただけだろう」と言い残して処刑されたことと同じだ。卑近な例では、上から指示されてもないのに除草剤を蒔いた店長たちとも。
確かに、悪はさらに上にある。が、そのことと、我々が選ぶ道は関係ない。

怒りに任せてマスコミをマスゴミと言うな、といつも思う。
おそらくは正当な怒りが皮肉によってわずかにずらされ、なにも解決してないのに解決した気になって終わる。その怒りは正当なまま、マスコミのほうを変えるために終生取っておかなきゃいけないものだったのに。本当に意識して、静かに火を燃やし続けないといけない。
「勝手にひとりで死ねよ」もそれと同じだ。ムカついて、次の日には忘れている。それは戦争を起こす者の思考と同じだ。

自殺的他殺を起こそうとする人間が、自分の愛する人間だったら、そう思うだろうか。「当人も含め誰も殺めるな」つまり「この事件自体起こるな」と思いはしないだろうか。
だったらなぜ、赤の他人は「勝手にひとりで死ねよ」でいいのか。自分のまわりはダメで、知ったこっちゃないとこで起こるのはなぜいいのか。それは戦争を起こす者の思考と同じだ。

人間である以上、そう思うのを、差をつけるのをやめろとは言わない。が、その差が争いを引き起こすこととちゃんとつながっているだろうか。自分が日々小さな引き金を引いている感覚が、日々あるだろうか。

もしあるなら、「戦争は愚かなことだよ」と言って話が終わる…
ということは有り得ないのではないか。その愚が自分の中にだけは無いと思っていなければ出てこない発想だ。


今日の内容を「言う」ではなく「やる」にするにはどうしたらいいんだろう。
歌にして世に広めたがることは「言う」のままなのか、それとも多少は「やる」が出来ているんだろうか。
それとも自ら戦線に立ち、兵を説得して銃を下ろさせてはじめて「口だけじゃない」と言われるんだろうか。

先ず隗より始めよ、という。
オレはこの記事を明日も自分の中に覚えてられるだろうか。




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【今日のオリジナルソング】

最近の日替わり過去曲いつも同じ曲やん、って?
えぇ。そりゃー12月ですから。




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