ホン雑記 Vol.558「創造者。発見者。輪転者」
24時間テレビ内でやってたスペシャルドラマ『無言館』を観たが、ま~ぁ良かった。
そりゃ、ま~ぁ良いわな。国内で死ぬまでに行きたい場所は、この「無言館」と「知覧特攻平和会館」のふたつなんだから。
もちろん戦争バンザイ人間ではない。だけど、世界に良いこと悪いことがないと思ってる身としては(いや、実際はあると思って生きちゃってるさ)、人間の究極の状況において輝く…輝くで英雄視が過ぎるなら、発現する生き様が美しい…美しいで美化が過ぎるなら(メンドくせーなーもー免責的な書き方すんのよー。もっと自由に書きてーんだよ(書けよ))、凄絶であるということだ。
これ以上に心打たれる人間の状況があまりなく、たまたまふたつが戦争モノというくくりになっているだけだ。
もう何年も前にテレビか何かで、戦没画学生たちの絵を展示した美術館「無言館」のことを知った。それが行きたい場所にずっとあるのは、その時の館長の言葉、
「無言館にはふたつの意味があります。ひとつは、もう語ることのない者が描いた絵であること。もうひとつは、観る者が言葉を失くしてしまうことです(うろ覚え)」
のせいだった。
ドラマ『無言館』は、その創設者であり現館長でもある、窪島誠一郎氏の奮闘記だ。
もう何から何まで良くて、開始数分で泣いていた。そこから息継ぎのような割合で最後まで泣いてた。
そしてまた新しい(素晴らしい)新感覚をオレに与えてくれたドラマだった。
その感覚のなかばほどは、春に行ってきたゴッホ展で芽生えかけていた。このゴッホ展、副題を「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」という。
フィンセントはご存知ゴッホで、ヘレーネとはヘレーネ・クレラー=ミュラー、世界最多のゴッホ作品の個人収集家の名である。
これを観に行った時に、ツクリテと同じぐらい彼女を崇敬してしまった自分がいた。
オレは性格と頭がちょっとよろしくないので、芸術の裾野に連なる人々を「ツクリテとその他大勢」に分けてしまう悪癖があった。クリエイターだけが本物で、それに群がって集める人、開く人、呼ぶ人、行く人は外野扱いしてた。
その排他的な思想は、FFの作曲者である植松伸夫氏の金言によって20代の頃に打ち砕かれてるはずなんだけど、頭のいろんなところに転移済みで、なかなか取り切れてないのが現状だ。
そこに「あ、れ?」と強烈に思わせてきたのがヘレーネだった。人生を賭けてゴッホの天才を世に知らしめた。彼女は富めるコレクターだったんで、それまでのオレにとっては特に敵愾心を燃やす的と映った。
それが「あ、れ?」となった。「コノヒトモ、モシカシテ、ホンモノ?」と、初めてピコピコと胸のどこかで趨勢をもたげて来た。簡単に言えば「こりゃかなわねー」ってヤツだ。
そして昨日、窪島氏の生き様を見てようやくたどり着いた。「熱のある者はツクリテとまったく同じエネルギーで動いている」のだと。仕事の形が違うだけなのだ。
それは、クリエイターもコレクターも、まったく同じイントロデューサー、「紹介者」ということ。
言ってみれば「こんなの見つけたよ! すごくない!?」だ。
ゴッホは自然の中の美を、ミュラーはそれを見つけられる人を、世界に広めた紹介者だ。
その証拠に、ゴッホは神から食糧を授かる農夫たちに並々ならぬ畏敬の念を抱いていたし、ミケランジェロは「どんな石の塊も内に彫像を秘めていて、それを発見するのが彫刻家」と言い、窪島誠一郎は「この仕事(無言館創立)は初めて『自分が絵のほうに見つけられた』と思った」と語るのだ。
熱のある者がホンモノなら、その末端である(下位という意味ではない)客やファンたちは何を紹介してるんだろう。
それは、自分の心が自分の細胞に英気を届けていると考えられないか。
休みの日に好きなアーティストのライブに行って実際にエネルギーが湧く。そうして行われる日々の仕事とその姿は、自然を世界に広めるクリエイターをクリエイトしている。そうやって上も下もなく、循環している。
のだと、思いたい。まだまだ人間界の雑音がなかなかそうは思わせてくれないけども。
って、それも自分でパラボラ立てて集音してるんだろうけど。
目に見えない箇所をまたひとつ埋めてくれて、ホントに有り難い時代だと思った。
ミルクを飲んであげる赤ちゃんや、パンくずを食べてあげるハトは、受け取る以上のものをその場で返している。