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ホン雑記 Vol.541「振り返りすぎ。馳せすぎ」

馳想力が落ちているなぁ、と思う。
夏が一番好きなんで、夏が来た時の「うわー、夏だー!」感が毎年幸せだった。何年か前に一度だけ、5月あたりで強烈に夏の訪れを感じたことがあって、メチャクチャ得した感があった。それがなんと今年はいまだない。


子供の頃に夏休みが7月21日から始まったんで、なんとなくそのへんから毎年全力で夏を感じまくっていたいんだけど、音沙汰もないまま8月に入り、あまつさえもうなかばまで来てしまった。あ~~~、イヤすぎる。
嫁にそう嘆いたら、案の定ようわからんらしい。「暑いの早く終わらんかなーぐらい」って言うもんだから「え、それって夏が早く終わってもいいってこと!?」と半狂乱になってみたけど、容赦もない「うん」が返ってきた。

世界広しと言えど、これほどいい夫婦はなかなかいないが、それでもこれほどの深い溝があろうとは…。ホントにいろんな人間がいるもんだなぁ。
向こうにとっても、炎天下喜んで日焼けに行くオレはエイリアンと映ってるのかもしれない。

で、これってね、ついさっき思ったんだけどね、そもそも馳想力ってのは落ちてくもんなんじゃね? と思った。だって、感受性は思春期の2倍強はある。なのに夏だけ謳歌できなくなってきてるっておかしくね? って。
ボクネ、これわかっちゃいましたヨ。それってね、きっとノスタルジーを食い荒らしすぎなんだよ、これ。

皮肉なことに、か、ありがたいことに、か、人生で桜が一番美しかったのは、オトンが死んだ翌春に母校の小学校まで散歩に行った時だった。
そりゃひたすらに打ちのめされてるからねー。それまで小学校に散歩しに行くなんてこともなかったし、その空白の時間も桜を美しく見せる良いスパイスになってる。ん、樹木に香辛料のたとえはあまり良くないな。なんかすぐ枯れそうじゃないか。

こないだ読了した『なつかしさの心理学』に書いてあったけど、ノスタルジーを感じる条件は「過去に繰り返し経験したこと&時間を隔てていること」のふたつがセットらしい。
なるほど。ま、1回だけの経験でもあるっちゃあるんだろうけど「あ~、懐かしいね~」とごゆるりと浸る感じなのは、たしかに繰り返し経験したことかもしれない。それは大村崑だとかね。あのオロナミンCの看板も1回しか見てなかったら、知らんオッサンに思い入れなんか湧かんわな。

ということで、毎年来る夏を感情の上で謳歌できなくなってきたのは、毎年毎年ノスタルジーを食い尽くそうとしすぎてる、つまり年1とはいえ時間を隔ててないんじゃないか、と思いはじめたわけ。
ずーっと構えてんだよね、今年はもっともっと夏を味わうぞーって。「触れているものは見えない」ってどこかのイケメン天才思想家が言ってたけど(結構近くにいた気がする)、懐かしさって構えて味わうもんじゃないしね。忘れた頃にふとやってくるものでね。
ってか、日本語の「ふと」っていいよね。いかにも「ふと」した感じだよね。



当たり前の話だけど、全力で振り返ろうとか、全力で食らい尽くそうとか虎視眈々ってるより、今を全力で生きたほうが未来で味わえる思い出はより多く濃くなるわね、そりゃ。
千春も、振り返るにはまだ若いって歌ってたしな。


おぉ、言い忘れるとこだった。
「馳想力」、造語です。




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