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雑記1113「意味を問えるほどまだ生きてないだろう」

映画になった『ルックバック』を観に行こうかと思ったけど、メンドいし、ちょっと高いし(尺が1時間ほどなので相対的に)で、結局前に無料で読んだ漫画版をkindleで買った。

これだけ賛否が分かれるのも珍しいと思うんだけど、結局「ぴ」のほうは「なんだかよくわかんない」からでしかなさそうね、といくつかの感想を見て思った。ま、似たような経験がないとそりゃあね。
作品として良いか悪いかはオレにはまったくわからんが、とにかくオレにはまた刺さった。遅効的に。


2回目を読み終えた時には「あれ、こんなもんだったっけ?」と思いながら、最初に読んだ時には涙したことも思い出した。
内容は半分ほど覚えてないし、以前刺さっていま刺さらんっていう映像作品もオレ的にはあんまりないんで、あれれ? って感じで終わった。

が、次の日、鍵盤の基礎練習をまた黙々とやっていたら、ヒマなもんで漫画の内容を何カ所か想起してみた。しながら弾いてみた。
そしたらちょびっとだけ泣けた。雀の涙ほどだけだけど。
「描いても何も役に立たないのに」
それは主人公のそのセリフを想った時のことだった。

まさにオレがいつも、そう思いながら弾いてるからだろう。自分がそのことをやってる瞬間に、思い出しさりした。
いつも基礎練やってるんだからその悲しいセリフの心情ももう痛いほどわかってるのに、その時はその漫画を読んでるんで自分がそのことからちょっと離れてるんだろうか。アホだなワシ。

で、弾いてる時はそのセリフのまさに体験中なんで(そんなに意味無いとは思ってないし悲観もしてない状況なんだけど)、いまありありと思いさるんだろう。
ってことは、人間ってヤツはですよ、ちょっと前の自分さえ完全にわかってやることもできないんだなぁとなって「ふへぇ~」ってなる。

人間が、ただ生きてるだけなのに悲しいのはこういう仕様のせいじゃないの? つまり、わかり合えない、伝えきれ合えないみたいな(個人の感想です)。
で、この類の悲しみは、歳を増すごとに増えてる気がする。つまり、楽しさを感じていても、幸せを感じていても、これは思い出になるわぁと感じていても、どこかその度合いに比例した悲しみが、感情の端のほうに生まれやがるのだな。あまり端っこのほうは見ないようにしてるけどさ。
その原因ってのも、いま「感じていても」と3回書いたこととどっか繋がってるのかもしんないね。だって、子供の頃はそんな、感じてるなんてことを感じてなかったからね。


そうそう、嫁もオタクだし売る側でコミケ行ってるんで多少刺さりはしたみたいだけど、逆に「チラ読みはしたいけど手元に置いときたくない漫画」と言ってて、理由を聞いたら「コンプレックスに触れてくるから」だという。刺さるにしても、まったく逆の刺さり方だな。

そういえば嫁は怖がると逃げたがるし、オレは怖がると鍛えたがる。
「あぁ、こんだけこの漫画の中の人たちは描いてるんだから、オレなんかまだまだアマちゃんよなぁ」とボコられてる間が結構安心できるのだな。
「そりゃーこんな練習量じゃどこにもたどり着かねーよ」っていう普段からの自覚にちゃんと「そうだよ」してくれるんで。「なんで自分だけがこんな目に?」って思う時が、一番ヤじゃないっすか。人間。

ま、「オレは怖がると鍛えたがる」は半分以上否定しとくわ。逃げ癖が酷くてここまで来ちゃったのはオレのほうだしな。嫁はちゃんと社会人してますし。


そういったどこにもたどりつかない、誰にも褒められない恐怖が増した時にいつも思い出しきする言葉が、批評家・若松英輔氏の、
「私たちの一番だいじな仕事は、誰も評価なんかしてくれない」
という金言だ。
これを思い出すとひれ伏す。やらない、やれないの言い訳を根こそぎ潰してくれる。彼が自身の講演中に出してくれた言葉だ。
(あぁ、いま読み返して思ったけど、誰も評価なんかしてくれないってのを悲劇と取る人もいるのかもしれんね。これはたいがい救いの言葉だぜ~?)

それは詩人・志樹逸馬の作品を取り扱う講演で、志樹逸馬はハンセン病患者だった。
ここでまさかドリアン助川氏(『あん』より)と繋がるのかと、なんとも晴れやかな気分になったことがあるんだよねぇ。

知ってるってことがもたらすしわわへって、そういう瞬間に最高潮な気がするなぁ。




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【今週の過去分オリジナルソング】




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