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explosion of emotion

10月、ある雨の日の午後、私は表参道を彷徨っていた。恋人と落ち合うためだ。

正真正銘の方向音痴で、地方都市在住のため東京はそもそも土地勘がない。表参道駅の中心で私は立ち尽くした。最適解の出口がわからないため、改札すら出られない。経験則として、出口を間違うとまず目的地に辿り着けないというのがあった。その上足元が悪いことも踏まえて、できるだけ遠回りしたくなかった。

思えば初めて会った時もそうだった。東京駅の北乗り換え口改札で待ち合わせのはずが、当然のように南乗り換え口改札で行き止まり、結局お迎えにきてもらったのだ。

雨の中先に着いている恋人に助けを求めるのはさすがに気が引けたので、Googleマップを頼るほかないが、まったく頭に入ってこない。15分ほど経ったころ、地図を凝視しても無意味だと悟り、諦めてとりあえず外に出る。暫く歩いてみたが、結局まいごのままで、別の場所に着いてしまった。気を取り直して軌道修正するも、だんだんいらいらしてきて、心細くてもう帰りたいと泣きそうになる始末。まいごになると、なぜか童心にかえってしまう気がする。

雨が好きだった。でも、その日ばかりは鬱陶しかった。おきにいりの紅茶色のビニール傘に宥められ、まもられながら、透明の街を歩いた。四苦八苦してようやく恋人と会えた暁には、よりによってマキシ丈の、シャンパンホワイトのワンピースはほぼずぶ濡れだった。

長いあいだずーっと来てみたかったドリスヴァンノッテンの路面店に、初めて足を踏み入れる。天候のせいかひとけは少ない。私はドリスに特別な思い入れがあり、ブランドの世界観はさることながら、彼の哲学や品格がとても好きだった。

1階はウィメンズのフロアで、ショーウィンドウ側の壁面の棚に大型の本がディスプレイされているのを見つけた。ドリスのアーカイブをまとめた、大容量の図録だとすぐにわかった。現在入手困難になっており、買いそびれたことをひどく後悔していた代物だ。

店員さんに「これ売ってないですよね」と尋ねると、やはり絶版とのこと。日本だけでなく、彼の故郷ベルギーでももう販売していないようだと教えてくれた。

マットスキンとフェザーブロウが印象的なその店員さんは、「よかったらゆっくりご覧になってください」と、ご親切にもソファに案内してくださった。顧客でもないのに申し訳ないなと思いつつ、二人で大きな黒い革のソファに腰掛けてアーカイブを眺めていたら、そのかたが「もしよかったら」と切り札と思しきものを差し出してきた。やや分厚めで墨黒のそれは、パリの装飾美術館で行われた展覧会の図録だという。「インスピレーション源と、ドリスの作品が(見開きで)対になってるんですよ」。


我々は時折服飾の話をする。私に関しては毎月数冊モード誌を読んだり、気が向いたら各メゾンのコレクションを多少チェックしたりする程度のニワカだが、それなりに興味はあった。服飾やメゾンの系譜を論じたり、デザイナーのスタイルやフィロソフィーを学術的に考察したりするような書物はないものかとよく話していて、その矢先のカラーバスだった。二人とも、まさにこういうものを探していたのだ。私も、普段は感情を露わにしない彼も、感動していた。どうにかしてこれを手に入れられないものかと考え始めてしまうほどだった。

ぱらぱらとページをめくっていたら、あるお洋服が恋人の目に留まった。夜の水平線に道のように緑色の光が差している、写実的なドレスだった。

「これがなんだかわかりますか」
「海……に映った、光の道?」
「グリーンライト。グレートギャツビーですよ」

フィッツジェラルド、と思ったのも束の間、

“Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recede before us. It eluded us then, but that's no matter -- tomorrow we will run faster, stretch out our arm further.”

流暢に、風が吹き抜けるように暗誦していた。聴き慣れた声が、私の深淵に流れていった。以前から知っていたものの──そしてこのひとに強く惹かれる最大の理由である──、なんて素養のあるひとなのだろうと改めて感銘を受けた。

彼の知性の発露は、瞬く間に琴線に触れ、私はまた恋に落ちたのだった。

ひとりでいたら気がつかないで通り過ぎてしまうようなことも掬って教えてくれる、そのたびに私の知的好奇心は満たされていく。このひとといると、より多くの文化を享受できる感覚すらあるのだ。ゆたかさとは何か、いつも考えさせられる。

その日も、その日が終わってからも、来てよかったねと何度も話した。
美しい雨の日の、美しいできごとだった。

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