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真のお金持ちは性格が良いのか悪いのか

貧すれば鈍する…という言葉があるけど、お金が無いと心の余裕を失って人格に関わる部分に問題が出るという考え方についての話を度々目にする。

そこで、最近ふと思ったことがある。

“本当に沢山稼いでいるお金持ちは心に余裕があって良い人が多いけど、中途半端なお金持ちはダメ”という考え方。
私は、この考え方に長年賛同していた。

でも、最近これって自論を強化する為に変なバイアスをかけているんじゃ無いかなあ…って疑問に思った。

つまり、“真の大金持ちは良い人”という結論に達する為に、自分が今までの人生の中で出会ってきた“性格の悪いお金持ち”というその結論を覆しかねない存在について、“でも、この性格の悪いお金持は1年間に◯千万円を稼ぐレベルのお金持ちで、1年間に◯億円稼ぐレベルのお金持ちなら違う”という風に考える。

でも、常に様々な分野において上には上がいて青天井な世の中だから、そもそも“真の金持ちは年間いくら稼いでからなのか?”という問題があるよなあ…と。
中途半端な金持ちというのは、何円から何円までを稼ぐ人の事を言うの?…みたいな。

「この人は“中途半端な金持ち”だったから性格が悪かったんだ…。だから、“真の大金持ちなら性格が良い”んだ。」というのは、何らかのバイアスがかかっていて、一つの結論にこだわりすぎて、その結論と違う例外的事例について何とかしようとするからそういう考えになるんじゃないかなぁ?とか。

例えば、“中国人は意地悪だ”という結論に達する事にこだわって理論を展開しようとすると、“前に道を教えてくれた親切な中国人が一人いた”という実体験に基づく事例があった事について“でも、あの中国人の顔は日本人っぽかった、そういえば祖父が日本人だと言っていた。日本人の血が4分の1入っていて中国人の血が薄まっているから良い人だったんだ。”という風に考えて、“真の中国人はダメだが、日本人やヨーロッパ人といった他の国の血が混じっていて中国人らしくない中途半端な中国人は良い人だ”という、まるで『帰ってきたヒトラー』や『帰ってきたムッソリーニ』に出てきたセリフの様な考え方が出来上がる。

さすがに、こういう理論の組み立て方だとしたら、最初に書いた考え方は、結論ありきでバイアスがかかっていると言えるのではないだろうか…と。

貧すれば鈍する…というのを実感する瞬間は無くはないものの、その“鈍する”の部分が、誰かにとって“性格が悪い”と目に映るようなものになるのかどうか?という点においては、金銭的問題のみならず様々な要因が複合しているのではないかと。

“中途半端な金持ち”という概念が、あまりにも抽象的過ぎるのが、また厄介だなぁ…とか。

そんな取り留めのない事を考えてしまっている今日この頃。

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