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コジコジ第5話『手紙を書く』

第1話で主人公コジコジが放った「コジコジは生まれた時からずーっと、将来もコジコジはコジコジだよ。」という名言の真理を再確認させられるエピソードだった。

このエピソードの中で、コジコジは両親に手紙を書こうとするも、両親の存在を知らず、改めて親を知らない孤児の様な状態である事が描かれた。

普通なら、ここでコジコジの孤児としての哀愁とかが描かれると思うけど、そこに少しひねりがあった。

コジコジには、“〇〇の〇〇さんの子供”という概念が無いのに、“かわいそうな孤児”という空気感が、ほぼ感じられなかった。

コジコジという生き物について、“この広い宇宙に生きる生き物の一つでしかない”という哲学的な答えを作者は読者に提示していた。

そして、コジコジ本人の心理描写には、親のいないキャラクター特有の悲壮感は微塵も無く、自分のことを徹頭徹尾“ただそこにたまたま存在していた生き物”としてしか認識していないかの様に描かれていたのは驚いた。

親がいなくてかわいそうな子なのに、それが理解出来ないかわいそうなアホの子……というのとも、違う。
そういう固定概念を取っ払って、本当に“ただそこにいるから、そこにいるだけ”みたいな……多分これがニヒリズムというものなのだろうか?とふと思った。

ただそこにいる可愛いマスコットキャラクター…としてのあるべき姿を極めるとこうなるのかもしれない。
コジコジがその辺の生物を超越した何かの様に見え、ある種の畏敬の念の様なものすら感じた。

多分、コジコジというのは骨の髄まで既存の価値観から解放されている存在だから、既存の社会的価値観を持つ者(既存の社会的価値観の中では社会的に重要なポジションとなる王様であるゲラン君など)ほど重要視して固執するブランド品の象徴である“物知りハンドブック”や“高橋留美子のサイン”という物を(貰えば喜ぶけど)そこまで深く固執しないのだろう。

現実世界であれば、資本主義社会という枠の中で生きなければならない為、どうしてもその中で重要な資本となる物(国家の権威・権力によって付加価値がついた紙幣や硬貨など)に振り回される事を回避することは出来ず、どこまでもこの権力の象徴たち(お金やブランド品など)に振り回されてしまう。

もっと規模を小さくして言えば、家庭内における祖父母や両親や兄姉といった権力者の下で、彼らの権力に振り回されながら半魚鳥の次郎の様な者たちは生きなければならない。
その様な権力者たちを権力者たらしめるプロセスには、“人々の中にある価値観”という目に見えない実体のない概念も大いに影響している。

例え、その様な権力の象徴たちからのシガラミから完全に解放されたコジコジの様な自由な存在になりたいと願ったとしても、現実の人間社会はそれを許してくれるほど甘くない。
第一話で次郎は、コジコジの様に既存の価値観から己の身を解放しようとした結果、家庭という現実の人間社会の縮図のような場で母親という権力者から逃れることが出来ずに血が出るまで体罰を受けている。

だけど、コジコジが生きる世界は、非現実的なメルヘンの国……コジコジの様に既存の価値観・権力などといった現実的なシガラミから解放されたいと願えば飢える心配も凍える心配も無く自由気ままに生きたまま叶えられる。

コジコジは、図らずもメルヘンの国という非現実な空間の中で、あの精神領域に到達している存在なんだろうなあ……すごいな、他の住人たちは、メルヘンの国の中でも自らの意思で無くても生きていける様な既存の価値観に縛られに行くのに……これは、ある種の超人だなあ……とふと思った。

https://youtu.be/06Nfveio2Wo?si=VwsGWodCzo7NKzOG

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