鎌倉武士はヤバかった

「侍の本懐とは ナメられたら殺す!!」
 このネットミームをご覧になった方も少なくないであろう。
 出典は、2016年から2017年にかけて講談社『週刊モーニング』誌で連載されていた『バンデット -偽伝太平記-』(河部真道)。鎌倉末期の武士の実態をよく描いているとして、歴史ファンの間ではずいぶん盛り上がったものの、惜しくも長期連載にはならなかった。

 さて、鎌倉幕府には、第三代執権・北条泰時が制定した『御成敗式目』(貞永式目)なる法令がある。その第十三条を現代語訳すると
『人に暴力をふるうことはうらみを買うことであるからその罪は重い。御家人が相手に暴力をふるった場合は領地を没収する。領地がない場合は流罪とする。御家人以外の場合は牢に入れる』
 ……別に当たり前のことを書いていると思うなかれ。同じく鎌倉時代の絵巻物『男衾三郎絵詞』には、武士の心得として
『門の外を通った乞食や修行者は、有用だ。鏑矢を射って、馬で追い立て弓を射かけろ』
 とあり、「武芸の鍛錬のためなら、(自分の敷地内-門前は敷地に準ずる-なら)通行人を殺傷して構わない(むしろガンガンやるべし)」という常識があって、それを何とかやめさせたいと思って、加えられた条文のようなのである。

 武士が誕生したのは、雅な平安時代のはずである。そんな時代に、どうしてこんな蛮族が誕生したのか? 近年の研究は、その謎を解き明かしつつある。
 平安時代になかったものが三つある。「国防軍」「地方警察」「死刑」。
 そもそも「日本」という国が、豪族の寄り合い所帯から中央集権国家になったのは、六六三年の白村江の敗戦以降のことだ。それ以前から朝廷は中央集権国家を志向していたが、なかなかうまくいかなかった。しかし唐・新羅連合軍に完敗を喫したことで、日本は唐や新羅からの侵略に、本格的に備えなくてはならなくなったのである。各地に水城などの防衛施設が築かれ、徴兵制(防人)が施行されて、日本は防衛体制を整えた。『防人歌』に遺されたように、庶民は重い負担に苦しんだ。だが唐も新羅も、結局攻めては来なかった。
 奈良時代末期から平安時代初期にかけて、防衛負担に音を上げた日本は防人を廃止して、少数精鋭の健児制に切り替えた。しかしこれは実質、国防軍の解体だ。そして健児制で維持された兵員は、多い国(当時の日本は六十余州と言うから、一国の規模は現在の都道府県におおむね近い)で百から二百人。日本は外敵からの国防だけでなく、地方の治安維持も放棄したのである。当然地方の治安は乱れ、盗賊や海賊がヒャッハーした。しかし荘園からの租税が無事に納入されている限り、中央の貴族たちは何もしようとしなかった。この状況に、地方の富農や豪族が自ら武装して防衛に立ち上がった自警団が、武士の起源の一つとされているが、これだけだと大きなものを見落とす。
 平安時代、日本に死刑はなかった。法令的にはあったが、ケガレを嫌う貴族たちによって、実行されなかったのである。しかしいつの時代にも不良はいる。特に、働く必要はないが家を継げない、貴族の次男坊以降はグレやすい。この場合の「グレる」とは「万引き」「盗んだ牛馬で走り出す」レベルではなく「放火」「強盗」「殺人」などである。しかし彼らを死刑にはしたくない。ではどうするか。京から遠い国へ、流罪にするのである。
 流罪にされた彼らは、遠国で「貴種」と崇められ、やっぱりグレた連中の頭目に収まる。そしてヒャッハーするのである。あまりヒドいと討伐されることもあるが、やっぱり死刑にはできないので、さらに遠国に流罪にする。当然彼らはそこでも同じ事を繰り返すのだ。
 そして、先の自警団と、この貴種を担いだヤクザたちは抗争しながら合流し、武士団を形成していくのである。そりゃあのヤバい連中が誕生するのも当然だ。
 室町時代に入ると、幕府が京都に置かれたことにより、武士の貴族化がはじまるが、すぐに戦国時代が来て、元の木阿弥になる。江戸幕府が、この蛮族どもの教化に努めたことの表れの一つが、五代将軍綱吉の『生類憐みの令』である。お犬様ばかりがフィーチャーされがちなこの法令だが、「(人間も含めて)いのちをだいじに」が、この法令の眼目である。しかしそうやって中央(この時期は江戸)の武士が人間らしくなっていった結果、辺境(薩長)の蛮族に倒幕されるのだから、皮肉なものである。
  大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の坂東武者たちは、実にヤクザっぽく描かれている。武士の戦いと言うよりは、ヤクザの抗争である。しかしそれこそが、最新の考証に基づいたリアルな演出であることが、ご理解いただけたものと思う。


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