「完璧な模倣」

「人間社会にあるものはすべて、自然の模倣である。」こんな言がある。それを聞いて、あなたはどんな印象を受けるだろうか。「何、人間様が狭量な自然のイミテーションをしているだけだと、くだらん。そんな時代遅れな反進歩主義者の言など聞いていられるか!」と怒りだす人もいるだろうし、反対に「うむ、それはそうに違いない。人間は自然を母とし、宇宙を父とするものだ。自然に逆らっちゃいけない。人間というのはちっぽけな存在で、それを忘れちゃならんのだ」としみじみ語りだしたい人もいるだろう。しかし、だ。私はこの両者とも、人間というのを不当に高く評価し、また低く評価していると思う。なぜか、この両者とも、「人間には完璧な模倣能力がある」という前提があると感じられるからだ。これは人間を買い被り過ぎている。確かに、人間は自然をまねた。しかし完璧には真似られなかった。すると後者のような人物は「それ見たことか、人間はちっぽけな存在で、偉大な自然を満足に真似することもできんのだ」と鼻をフンフン鳴らしながらまくし立てるかもしれないが、それは人間を不当に低く評価している。完璧な模倣が出来ないということは、低俗な模倣になるとは限らないのだ。むしろそのコピーエラーこそ、新しいものの誕生なのだ。あなたが着ている服一つとってもそうだ。そのような色彩が自然界に存在するだろうか?これはまさにコピーエラーである。しかしあなたの服は美しいのだ。エラーこそが、人間の偉さなのだ。間違いこそが、創造力なのだ。私はそう思う。完璧な模倣ができないからこそ、人間は素晴らしい。
ここに一体の、完璧な模倣能力を備えた機械があったとしよう。そいつはあなたと同じ姿形で、声も同じ、記憶も同じで、考えることも同じ。そうした機械が、目の前にあったとしよう。そいつはあなたの一挙手一投足まで寸分たがわず模倣する。鏡を見ているようなものだ。しかしそいつは、鏡とは違い、左右が反対になっていない。全く持ってあなたそのものなのだ。はじめ、あなたは微笑するだろう。「おれはこんな風に見えているのか」もしかしたら、あなたが思っているより、あなたの(分身の)姿は悪くないかもしれないし、あなたはもっとファッションの勉強をしなくてはいけないかもしれない。ここまでは、あなたは平然としている。あなたは試しに「あ」と言ってみる、すると向こうも、寸分たがわぬ速さで「あ」と言ってくる。その誤差は1秒の1千万分の1の速さで、あなたはその誤差を感知することができない。声は重なりあなたの発した「あ」と分身が発した「あ」はぶつかり合う。あなたは驚く。そして若干不快になる。あなたの表情は少しだけ、ゆがむ。すると先ほどと同じく1秒の1千万分の1の速度で、分身の表情も、ゆがむ。ひどく不快そうに、あなたを蔑むように、ゆがむ。ここまで書けば、お分かりだろう。あなたはあなたの分身を許せなくなる。怒りがこみあげてくる。それは向こうも同じだ。見ると分身は拳骨を握りしめている。分身は手を振り上げる。ここまでくると、むしろ分身の方が、あなたに襲い掛かってくるように感じる。あなたは焦って、先に分身に殴りかかる。分身の右頬とあなたの右頬の骨が砕ける。数分後、あなた達は血だらけになっている。そこで、あなたと分身の脳裏に台所の包丁の存在がちらつく。しかし残念ながら分身の方がドアの近くにいるので、台所まで分身はあなたより先に動ける。分身は包丁を握っている。あなたは死の恐怖を感じる。だが、あなたは思い至る、「そうだ、こいつはおれの分身なのだから、おれが首を切る真似をすれば、こいつは自分で自分の首を切り落とすに違いないぞ」あなたはそれを実行する。分身は首に包丁を当てる。あなたは微笑を浮かべる。その微笑は分身にも伝わる。その不敵な笑みを見て、あなたは戦慄する。「ちょっと待て、こいつは笑っている。ひょっとして死ぬのは俺の方なのではないか。そうはさせないぞ」次の瞬間、分身も、あなたも倒れている。しかし首がちょん切れているのはあなたの方なのだ。

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