「あるイギリス人」


口笛を吹きたい気分だった。世界全てが美しく、これまでの人生のあらゆる失敗が成功のための伏線だと思えた。その気分を作り出したのは観念的努力でなく、実際的な実行だった。中国行きの申請が終わったのだ。来年には中国に行けるだろう。中国!中国!中国が好きだ。誰がなんと言おうと、好きなんだ。中国は一言で言えば昭和だ。昭和の人情、好ましい汚さがさつさ、そして四つの声がもたらす音楽的な言語!中国、中国。中国に行きたいのだ。とにかく行きたいのだ。行けさえすればいい。あの桃源郷に行けさえすれば、どんな苦難にも耐えられる。
だから気分が良かった。マスクの下でニヤニヤ笑った。中国、中国。彼を支えたのはこの2文字だけだった。
何か、起こらないか。普段彼の目を取り巻く不安のヴェールは剥がれて、世界をまじまじ見る事ができた。何か、ないか。この高揚感に保証を与えてくれる何か。
彼は機嫌が良いのでネットカフェのバイトの面接に行っていた。その帰りのバスの中で、彼は妊婦に席を譲った。なにせ機嫌がいい。
周りを見渡すと、前の方の座席に外国人がいた。直感だが、イギリス人だと思った。イギリス人は好きだ。教養がある。格式高い。彼の好きな小説家は大概イギリス人だった。その外国人は、年齢は50くらい、服はズタボロだった。しかしどこか気品がある。疲れている顔をしていた。そして、何やら声を発していた。彼はイヤホンを取り、耳を澄ました。イギリス人は目の前の女子高生に話しかけていた。「学校?」日本語だった。なかなか日本が長いなと思わせる発音だった。女子高生は戸惑ったように「そうです、そうです」と首をぐんぐん振った。イギリスはにこやかに、苦しみ疲れた人が優しいさに希望を見出したときのあの笑みで「なんの勉強?」と聞いた。女子高生は首を傾げながら「日本史とか‥」と言った。そしてスマホに逃げ場を求め、やんわりと「あなたとあまり会話したくない」という意思を示した。
彼はそれを見ていた。彼は中国好きの影響からか、白人が好きではなかった。白人差別をする小説をいくつも描いていた。しかし、そのイギリス人の悲しげな顔を見て、同情した。彼に何があったんだろう。
イギリス人とは下車駅が同じだった。彼はイギリスをつけてみることにした。機嫌がいいので。
イギリス人はスーパーに入った。酒のコーナーの前に行き、いろいろ物色していた。
そして、彼は見た。イギリス人がビールを懐に忍ばせるのを。
やはりイギリス人は面白いなと彼は思った。あの悲しいげな笑みから、ありふれた犯罪行為をする。この矛盾した存在。それが彼は気にいった。

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