「野辺の煙」

私の家の前には、火葬場があります。煙突から野辺の煙が立ち、今まさにどこかの誰かの肉体が気体に変わっていき、雲の隙間へと立ち消えて行きます。私はベランダから煙草を吸って、その様子を眺めるのが好きです。医者というのは、患者の死に様を見ますが、遺体がその後どうなるかは、死体安置所の職員や、火葬場の葬儀社の人にしか分かりません。私は医者として、患者の最期をすべて見届けられる場所にいます。あの煙はもしかしたら、昨日私が殺してしまった少女かもしれませんし、助かる見込みのなかったお爺さんかもしれません。私はしかし、その煙を見て心を痛めることはしません。ただ、見ずに入らない。見ることが義務であり楽しみなのです。
不意に、チャイムが鳴り、開けると40くらいの男性が息を切らして座り込んでいました。腕には赤ん坊がスヤスヤ眠っております。なんだろうと思っていると、彼が独り言のように話し始めました。彼は破産してしまいお金がない。この赤ん坊はどの医者に見せても悪いところがないと言う。しかし俺にはわかる。この赤ん坊はもうすぐ死んでしまう。助けてくれ、と。私は何が何やら、とにかく男を家に上げ、赤ん坊を調べてみますが、案の定どこにも異常はなく、むしろかなりの健康体にしか見えません。男は私に縋りつき、たった一人の娘なんだから助けてくれなきゃ困る。助けてくれないなら今ここで死ぬなんて言いますから、私はこの男頭がおかしいかと思いました。しかし確かに男の目の奥には正気の光があって、取り乱し方からしても本気であることは分かりましたので、その赤ん坊を預かって、翌日病院で詳しく検査しました。
病院というのは、私にしてみればホームであり、大方の患者も、患者の家族ですら、あの場所に居心地の良さを感じているようです。殺伐とした雰囲気もあります。命にかかわる私の科では看護師も医師も殺気立っています。しかしそれも見ようによっては人間の必死に生きるさまであり、かなり気に入っております。私はそこそこの腕があり、わざわざ私に治療を求めてはるか遠くから見える患者もありますから、この赤ん坊に万一があっても、すぐに助けられる自信がありました。赤ん坊をさまざまな機械にかけて、中身をじっくり見ても、しかし異常は見当たりません。あの男を呼んで、事情を説明しても、なんだかんだと言うばかり。
が、一週間ほどして、赤ん坊は死にました。突然でした。私は驚きのあまり、しばらく呆然と赤ん坊を眺めていました。男が来ました。私を殺すと叫びました。看護師たちに止められて、警備員が来て拘束されました。拘束されたのは私でした。私は右手に血の滴るメスを持っていました。赤ん坊の胸に穴が開いていました。私はいつの間にか、赤ん坊を殺していたのでした。
なぜ私はそんなことをしたのでしょう。答えは大方分かっています。あの煙です。あの野辺の煙の正体を掴みたかったのです。自分の殺した赤ん坊が煙になっていく様子をベランダから見てみたかったのです。私はもう、そんなことをすることはできないけれど。

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