須賀マサキ(まー)さんへのアンサー記事

先ほどこちらの記事を投稿したところ、須賀マサキさんから非常に面白いコメントを頂きました。ありがとうございます。掲載させていただきます。


「同じ言葉の繰り返しばかりで、目が滑ってしまいますね。
純文学は形ではない、ということを証明された気がしました。」

僕は純文学の新たな表現を提示するためにこの記事を書きました。逆接を多用することで、純文学っぽくなるんじゃないかという実験を行いました。

須賀マサキさんのこのコメントは非常に面白いです。

なぜなら、マサキさんは

「純文学の絶対的で正しい形を信じているから」です。

まず、僕は、純文学は分かりづらいというイメージがある、だから分かりづらく書けば純文学っぽくなるんじゃないかと思い、記事を書きました。

その記事に対して

「純文学は形ではない、ということを証明された気がしました。」

マサキさんはここで、「証明された」という語を使いました。

証明と言えば、数学的な表現の仕方ですね。

数学というのは、絶対的な答えがある。証明という言葉は、絶対的な答えがある問題に対して使う言葉です。

「純文学とは何か」という問いに、マサキさんは絶対的な答えがあると思っているんですね。

僕はそうは思いません。

「純文学のイデア」なんてものはないと思います。

純文学はみんなそれぞれの解釈で作っていくものだと思います。

マサキさんの「純文学には絶対的なイデアがある」という考え方のことを、「本質主義」と言います。

本質主義は、プラトン哲学からの系譜で、物事には絶対的で正しい答えがある。と考えることが「本質主義」です。

逆に「純文学には絶対的なイデアはない」という考え方のことを、「反本質主義」と言います。

反本質主義は英米哲学者の系譜で、物事に絶対的な正しい答えはなく、新たな見方をみんなで提示していくことが知的活動である。と考えることです。

マサキさんは「本質主義者」で、僕は「反本質主義者」です。

この考え方の違いが、記事とコメントのずれを生んだのでしょう。

僕は本質主義があまり好きではありません。それは不寛容と進歩の妨げになるからです。

プラトンの弟子、アリストテレスは師匠の考え方を自分なりに受け入れて、それを自然科学の分野に適用しました。

アリストテレスは世界は変動しない。と考えていました。変化というのは、絶対的で不動の世界で起こる些細なことで、変化は重要ではないと言うのです。

その考え方はベーコンが登場するまで塗り替えられませんでした。

そしてアリストテレスが天動説を確信したことで、西洋の天文学は大きく遅れました。

つまり、本質主義の立場を取ると、物事を狭く考えてしまい、他の考え方を受け入れられないのです。

「純文学とはこういうもの」と決めつけてしまい、それ以外のものを純文学ではないと「証明」しようとすることは、純文学にとって大きなマイナスだと思います。

「みんなそれぞれの純文学」をみんなが提示して、解釈して、楽しく創作活動をするほうが、純文学、ひいては文学がより豊かになると思うんです。

「本質主義」は科学とプラグマティズムの登場により下火になってきましたが、今だに我々の中に生きています。

「本質主義」は無味乾燥で面白味がなく、不寛容で進歩を妨げます。

純文学にそれを持ち込むのは、文学の進歩を妨げることだと思います。

僕はここで高らかに宣言しましょう。

「純文学は自由だ!」

と。

「みんなが自分の好きな純文学を探せばいい!それによって文学は実りある豊かなものになる」

と。

須田マサキさん、コメントありがとうございます。引き合いにだしてすみませんでした。


ではまた

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