「遅すぎた男」


結婚生活は薔薇色ではない。かつては薔薇色だった。が、それも今は昔。妻を女だと思えなくなった。性的魅力に惹きつけられて口説いた妻だ。それがなくなった今、口やかましい「女房」が出来上がった。私がベランダで煙草を吸うのをキーキー言ってくる。陳腐な言葉だが、誰のおかげで食えてると思ってると心で呟く。口には出せない。
若い頃、24、5の頃は結婚を熱望していた。結婚に憧れるのは結婚から一番遠くにいる人だけだ。自分を励まし、勇気づけ、夜の相手をしてくれる。そんな天使を想像していた。恥を忍ばずいうならば、私は結婚のことを若い肉体を持った母を手に入れることだと思っていたのだ。
現実は違った。関係は冷え切っているし、もう何年もセックスをしていない。会話は2、3言。子供はいない。正直、いつ別れてもよかったが、お互い40の峠を越して、老後の不安だけが結婚指輪を薬指に留まらせた。
最近、女房の嫌なところばかり目につくようになった。顔は悪くないが、歌が下手だ。声が悪い。あの声が嫌いだ。腹の底から声を出さない。喉でキーキー甲高い声を出すから一言も発して欲しくない。私は妻が友人と電話する時イヤホンをつけてNirvanaを大音量で流す。
あと、不潔ではないのだが、口が臭い。歯を磨いているはずなのに、臭いのだ。訳がわからない。寝起きに妻の口臭を嗅ぐと嫌気分で会社に行かなければいけなくなる。
極め付けは時間を守らないことにある。夫婦生活を破綻させないために半年に一度くらい2人で出かけるのだが、11時に出ると言っているのに、10時半に風呂に入っている。化粧に1時間はかかるので、どうしたって映画の時間に間に合わない。なんと言ってもそうなのだ。夫婦としてというより、人間としてダメなやつだ。
  
が、ある日、というより今日、こんな女房嫌いの私が彼女にプレゼントを買った。こんなことをしたのは、妻が最近やけに優しいからだ。浮気を疑ったが、毎日定時に帰ってくるし、40歳で男を捕まえられるものか。確かに妻は美人だが。あり得ない。いや、まさか。こんな風に疑心暗鬼になっていた私に、妻が優しくする理由を打ち明けた。「老後の保険よ」と妻は言った。それで私は得心がいった。私は愛情という代物を信じない。親から子への愛だけはあり得るが、実体験から夫婦の愛なんてないと思っている。妻の言い訳が夫婦仲良くした方が幸福とか、愛はこの世で最上の神の恵みだからというようなことだったら、疑いはますます増したろうが、老後の介護への保険とは、実に合理的で私好みの理由だった。だから私は今日、妻にプレゼントを買った。ちょっと高めの雑貨屋とか、服屋を見て周り、若い女店員に妻へ贈り物をしたいんだ。と言うと素敵ですね。と褒められた。私は良い気分になった。なんとかいう脳内物質が体全体に満ちわたるのを感じる。愛は信じないが、贈り物がもたらす脳内麻薬の人生における一定の効用は信じる。結局、かなり奮発して高級ブランドの財布を買った。妻は自立した女なのでそれをねだったことはない。好みも何もわからないが、その女店員が間違いなく気にいると太鼓判を押したし、私もデザインが気に入った。ごく控えめだが、どこか品がある。妻に似合わないことはないと私は思った。プレゼント用の包装をしてもらい。帰路についた。
ドアを開けても部屋は暗かった。おかしいなと私は思った。いつもなら帰ってくるはずの時間帯だ。この日に限って間の悪い奴だ。スーツを脱ぎ去り、リビングのソファの裏側に品を隠す。妻が帰ってきたら2、3言交わして、これを渡そう。喜んでくれるだろうか。喜んでくれるはずだ。なんだか人生が向上していく予感がしていた。
1時間が経った。妻はまだ帰ってこない。誰かと飯でも食ってきているのだろうか。そんなこと言ってなかったけれど。
2時間が経つ。まだ帰ってこない。私は若干心配になった。ありきたりだが、事故にでも遭ったんではないかと思った。病院の遺体安置所で妻と再会する場面を想像した。アメリカ映画でよくある展開だ。いや、映画は実際に起こらないことを描く芸術なのでそれはあり得ないだろう。
3時間経つ。いつもなら妻がうまい料理を作っている間、私は風呂に入っている時間帯だ。今夜は1人で風呂に入る。今帰ってきたらソファの裏のプレゼントがバレてしまう。そんなことを思いながら、シャンプーをいつもより激しめに泡だてた。
3時間半経つ。まだ帰ってこない。いくらなんでも遅すぎる。今夜、今夜に限ってなんでこんなに遅いんだ。せっかく買ってきたのに、少し眠くなってきた。そして流石に本気で心配になってきた。
4時間経とうとした時、扉を開ける音がした。ふっと見ると妻が笑みをこぼして帰ってきた。
私は大急ぎでソファの裏のプレゼントを取り、背中に隠した。遅いじゃないかと私がいうと妻はハイテンションでこう言った。

「離婚しましょう」

私はどうやら、遅すぎたようだ。

プチ文学賞に使わせたいただきます。ご賛同ありがとうございます! 一緒に文学界を盛り上げましょう!