実力不足


実力以上のことをやろうとすること。これが辛くなる原因だ。

テレビ番組やネットの影響で、誰もが殿上人の生活や考え方を見れるようになった。俺にもできる。みんな心の中でうっすらとそう思うようになった。その自信は幼少期から無意識下で刷り込まれて、「変な自信」を生み出す。この「変な自信」が厄介なのだ。
教育を受けた人でこの「変な自信」がない人はほとんどいないと言ってよい。みんな自分が最大限満たされているとは思っていない。上には上がいて、自分はまだまだだと思っている。そして自分はまだまだできると思っている。
もちろんこれはテレビやネットだけでなく、親や友人など複雑な原因が考えられ、自己啓発本や古典などを読むとその傾向は一気に加速する。それで自分の身の丈に合わない目標に向かってジャンプして、届かないと涙を流す。側からみれば滑稽な光景でも、本人にとっては身を切る辛さだ。なぜなら彼は自分には相当のジャンプ力があると思っていて、目標に届かないのはジャンプの時期や、仕方が悪いからに違いないと確信しているから。
そうやってぴょんぴょん跳ねては落ち込んでいる彼も、やがては自分の大腿筋に問題があるのではないかと思い至る。しかしそんなことはあり得ないとすぐに打ち消す。そうして何十回か繰り返すと、目標自体を嘲笑う。酸っぱい葡萄的な発想が彼の頭を支配する。性質が悪い奴だと隣で彼よりももっと低い目標に向かってうんと背伸びをして手を伸ばしている人をも嘲笑う。「あんなちんけな目標に何を顔を赤くしているんだ。どうせもぎ取るならこのうんと高い目標がよいだろうにバカなやつだ」彼はそのバカな奴が唸っている横で涼しい顔をしながら別のうんと高い目標を見つけてその場でぴょんぴょんジャンプを続ける。何百回か繰り返す内に、先ほど背伸びをしていた人が既に立派な果実を手にしていて、中くらいの高さの目標に手を伸ばしているのが見える。そして驚くのは、その堅実な人の背が先ほどよりも少し高くなっていることだ。彼はここでやっと悟る。「そうか、俺はこのうんと高い目標に届くには背が低いし、足の筋肉も足りていないのだ」彼はいそいそと、先ほど堅実な人が背伸びをして手にした木の前に来る。近くで見ると相当高い木に見える。しかし俺に届かないはずはない。だって俺はあんなにうんと高い目標にチャレンジしていたのだから。彼は試しに手を伸ばしてみる。しかし届かない。背伸びをしてみる。それでも届かない。ジャンプしてみる。それでも、やはり届かない。「おかしい」彼は思う。俺はあんなに高い目標に挑戦していたのに、こんな低い木にも届かないとは。
横を見ると、堅実な人はさらに高い木の果実を手にしていて、カゴには美味しそうな果実がゴロゴロ転がっている。彼は少し思案して、またうんと高い木に戻り、ぴょんぴょんと跳ね始めた。彼は永遠にその木の実に届くことはないだろう。堅実な人だって届かない木なのだ。彼に届くはずがない。彼はそうやってその場で跳ねながら、その一生を終えた。
しかし、しかし、私は彼のようになりたくないと思いながら、今まで彼と同じように生きてきて堅実な道へと方向転換しようとしている身ながら、このバカで哀れな彼がどうしても可愛く思えて仕方がない。どうしても彼のような人が愛おしくて仕方がない。この気持ちをどうしたらいい?答えを出してくれ、誰か。

プチ文学賞に使わせたいただきます。ご賛同ありがとうございます! 一緒に文学界を盛り上げましょう!