「笑いのツボ」

渡部健さんが、六本木ヒルズの多目的トイレで売春婦と破廉恥なことをした。というのが報道されて数年経つ。

私はあのニュースを聞いた時、爆笑したものだった。目に涙を溜めてヒーヒー言いながら笑いに笑った。

その調子で他の人も笑っているかと思って、コメント欄やニュースを覗いてみたら

みんながみんな、深刻な顔をしていたのだ。

私は不思議に思った。
「一体あのニュースにどんな深刻な内容があるというのか」

私が彼のニュースで笑ったのは多分
「いかに美人な嫁を持っていても、たまにはブスを相手したい」

という男の情けなさというか、どうしようもない本性を見て、おかしみを感じたのだ。

佐々木希といえば絶世の美女である。渡部健はお笑い芸人であり、相当の努力をして、佐々木希を嫁にしたのだ。

それなのに!

彼はブサイクで品性下劣なセクシー女優と多目的トイレで破廉恥行為をすることを抑えられなかったのだ。

これほど面白いことはないだろう。

なのになぜ、世間はあの事件を深刻に扱うのか、不思議でならなかった。

最近似たような、私と世間の受け取り方が違った事件があった。

名古屋市の市長が、オリンピックメダルを噛んだ事件である。

私はそのニュースを聞いた時、なんの嫌悪感も抱かなかった。「バカな爺さんだなあ」とおかしみを持って、むしろ微笑ましいと思ったものだった。

しかしワイドショーでコメンテーターたちは深刻な表情でこのニュースを語っていた。

あのくだらないニュースを深刻に語っていること自体にもおかしみを感じるが、ここでは何が世間と私との間の反応の違いをもたらしたのか考えてみたい。

「私には佐々木希とオリンピックの選手たちに対する反感の気持ちがあったこと。」

これが大きいのではないかと思う。

佐々木希は、なんというか、つまらない美人だなと思っていたのだ。実力でのしあがってきたわけではなく、生まれながらの美しさを武器にしてきた。そういう点から私はそもそも佐々木希が嫌いだったのだ。

そして、渡部健が、やってくれたのだ。

女にとって、自分よりブスな淫売婦に、夫を取られることほど悔しいことはあるまい。

私の笑いは、渡部建に対して「よくやってくれた!」という思いが内包された笑いであったと思う。

オリンピックの選手に対しても、反感があった。

私はそもそもスポーツが苦手で、ゲームの方が好きだ。そもそもスポーツとは一種のゲームでしかない。体を使ったゲームだ。けれども世間ではスポーツはなぜだが高尚のものとされて、ゲームは下劣なものとされている。

私はスポーツ選手に対して反感があったのだ。

なぜ、サッカー選手たちは世界で大して強くもないのに、インタビューであんなにもカッコをつけるのか。

なぜ、オリンピックは選手ファーストなのか。選手は国民より偉いのか。

そんな念があった。

その思いを河村市長は晴らしてくれたのだ。

「よくやってくれた!」

金メダルなんてそんなものさ。ゲームの大会で優勝したのと変わらない。河村市長の行為は、スポーツそのものを本来あるべき位置に落とす行為だった。そこに気持ち良さ、笑いを感じたのだ。

こうしてみると、笑いとは「よくやってくれた!」という思いが現れたものだと見ることができる。

普段反感を抱いているものをおとしめてくれる人やものに対して笑いを感じる。

私は佐々木希を評価してないし、スポーツが高尚なものだとも思わない。

しかし世間は佐々木希を評価してスポーツを高尚なものだと思っている。

この私と世間との齟齬を埋めてくれる行為に、なんとも言えない快感を感じる。

だから私は人とは笑いどころが違うだろうし、私のジョークは世間からバッシングされかねないものだ。

何に笑うか、どこに笑いのツボがあるかによって、その人の本質が見えるように感じる。

あなたは最近、どんなことで笑っただろうか。そしてその笑いは世間と合致していただろうか。

世間が笑うものを笑い、世間が笑わないものは笑わない。私はそんな人とは仲良くできる気がしない。

笑いのツボが同じであることは、一緒に時を過ごす人を選ぶときに、一番重要なことかもしれない。

ではまた

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