「仕切り越しの恋」

ああ、まただわ。今日もベランダには煙草の臭い。どうしたらいいんだろう。
ベランダを開けて、外の空気を吸おうとすると、いつも煙草の臭いにげんなりさせられる。
初めは、我慢したわ。けど毎日のことだし、わざと聞こえるようにベランダのドアを強めに閉めるとか、消臭剤をふりまくとか、いろいろしたけどダメ。隣家の人は朝10時になると必ず煙草を吸うの。
迷惑だわ。このマンションは煙草が禁止だし。2歳の娘がいるの。ほんと、許せない。
けど、直接言ったら、何をされるか分からない。ここの人たちは30代の世帯年収1500万以上の家庭が多いのだけど、隣は50代の母親と、その兄妹が住んでいるの。妹さんは大学生で、多分煙草を吸っている兄は、大学生なのかしら。何をしているのかわからない。見た目は大学生だけれど、あの眼光の鋭さは、大学生らしくないわ。
何をしているか分からない20代前半の男、それが煙草を吸って私を悩ます張本人。

そうだ。こっちから煙草の臭いをかがせてやればいいのよ。自分がやってることを自覚すれば、ベランダで煙草を吸わなくなるでしょう。
風向きがいい時に、煙草を置いておきましょう。
それにはまず、煙草を買いに行かなくっちゃ。できるだけ臭い煙草がいいわね。コンビニに行きましょ。ええっと、どれがいいかしら。できるだけ臭そうな奴。というか今私はどう見られているのかしら。コンビニの店長は私が迷っていると「銘柄でおっしゃってもらえれば大丈夫ですよ」と言った。その際ちょっといかがわしげに私を見た。私はどう見ても煙草を吸っているようには見えないでしょうね。私はちょっと恥ずかしくて、ちょっと誇らしかった。あの黒いのにしましょう。黒いってことはキツい煙草でしょうし。番号を言って、煙草を受け取る。「540円です」高い!1000円札で会計を済ませる。コンビニを出てしばらくして気が付く。「あ、ライター」ライターを忘れていた。私は赤面しながらまたコンビニに入り、ピンク色のライターを手に取って店長に渡す。店長は微笑して長年染み付いた機械的な動作で会計をする。「120円です」安い。私は小銭で会計を済ませる。660円。高いような安いような。でもこれで隣家からの煙草の臭いに悩まされなくなるなら、安いわね。
家に帰って、ベランダに出る。隣家からは相変わらず煙草の臭いがする。私は初めて、フィルムを外して、煙草を取り出す。「これからあの臭いが出るのね」忌まわしいと思いながら煙草をつまみ上げる。私の夫は煙草を吸わない。元カレの誰も煙草を吸うような人はいなかった。ライターで火を付ける。煙草の先端に火を近づける。「あれ?」火がつかない。どうしてだろう。なんどやっても火はつかない。どうやって火をつけるんだろう。私は困ってしまった。リビングに戻って、スマホで煙草の火のつけ方を検索する。「煙草って吸わないと火がつかないんだ」新しい知識が増えてしまった。ベランダに戻る。本当は、吸いたくはない。けど、隣からの煙草の臭いを消すため。そう言い聞かせて、煙草を唇に着け、とまどいながら、ライターに火をつけ、煙草の先端にかざす。スッと息を吸うと、ジュワっと音がして煙草の先端が真っ赤に染まる。私は思わず「きれい」と思ってしまった。けどすぐに打ち消す。口から少し、煙が出る。ああ、煙草の臭いだ。私はその煙草を、隣家との境目、「非常の際はここを破って避難してください。避難のため、この付近に物を置かないでください」と書かれた仕切りの近くに置く。風向きはちょうどよく、仕切りの隙間から、隣家に紫煙が入っていく。今頃、彼の鼻の中に、煙草の臭いが届いただろう。私はしめしめと思いつつ、ちょっとした罪悪感もあった。少し子供っぽ過ぎたかな。
翌日、2歳の娘と中庭で遊ぼうとして、廊下を通りがかると、隣家から彼が出てきて、私はドキッとした。あの煙草の臭い、私の当てつけは彼に届いているのだろうか。彼はどこかに出かけるのだろうか。(もしかして煙草を買いに行くのだろうか)黒いポーチを肩から下げていた。さらさらした黒髪が櫛で整えられて、ツヤを放っている。服装は割にシンプルで、黒くてオーバーのシャツに、すらっとしたチノパン。やっぱり大学生かな。彼は娘をチラッと見て、それから私を見た。「こんにちは」彼は言った。快活に言ったわけではない。このマンションでは住民同士で挨拶するのが慣例だから、それに従ったまで。といった感じだった。私も挨拶を返す。そして彼は興味なさそうにエレベーターに向かった。私も同じエレベーターに乗るつもりだったが、気まずくなって、彼とは反対方向のエレベーターに娘を連れて歩いていった。
夫は、いつも帰りが遅い。「家族に迷惑はかけられない」と言って仕事を頑張っている。お金はほどほどでいいから、早く帰ってきて欲しい。というのが本音だった。けどそんなこと言えるはずもなく、行ってらっしゃい。頑張りすぎないでね。というばかり。
そんなことを思っていると、ふいに煙草の存在がちらついた。そういえば、煙草を一口吸ったまま放置していたけれど、あれは吸い続けなくても燃えるのかしら。そんなことを思った。ベランダに出て置いておいた煙草をみると先端だけ灰になって、あとは残っていた。

そこで翌日の朝10時に、彼が煙草を吸い始めてから、私も煙草を取り出して少しだけ息を吸って火をつけた。この動作にも慣れてきた。しばらく煙草の様子を見守ると、1分くらいで煙草の火が消えた。やっぱり。吸い続けないと火は消えてしまうのね。じゃあ、やっぱり吸わなきゃ。最低限、煙草の火が消えないように。火が消えそうになると、火を消さないために、ほんのちょっと煙草を吸った。これが、彼が今感じている味。こんなまずいもの好き好んで吸うなんて。煙草を一本燃やすには、5口ほど、吸わなきゃいけなかった。ああ、まずい。
2週間それを続けても、彼は煙草をやめるつもりはないらしい。私はむしゃくしゃした。せっかく煙草を買ったのに。煙草の残りはもう、尽きてしまった。私はもう一度煙草を買いにコンビニへ行った。店長はいなくて、若い女の子だった。私が番号を言うと、彼女は驚いた顔で私を見た。
ベランダに戻る。煙草に火をつける。煙を吐く。しばらくして、火が消えそうになる。煙を吸う。煙を吐く。しばらくする。火が消えそうになる。煙を吸う。…
繰り返している内に、私は火が消えるのを待つまでもなく、煙草を吸っていた。
夫にバレないように、細心の注意を払った。煙草はいつも自分のカバンの奥の方にしまい込んで、服についた臭いがとれるまで、柔軟剤を大量に入れて、何度も何度も洗濯機を回した。煙草を吸った後は必ずシャワーを浴びて、リビングにはお香をたくようにした。
夫には多分、バレてない。元より私の匂いなんかに興味を持つ人ではないのだ。私は毎朝10時にベランダに出て、彼と一緒に煙草を吸う。その時だけ、夫や娘のことを忘れていられる。彼は今、何を考えているんだろう。マンションの前に視界を遮るものはなく、雲や、森、道行く人々がよく見える。彼はこの景色を見て、何を思うんだろう。私はそれが、ひどく気になった。
彼も、私が煙草を吸い出したことに、気付いているはずだ。彼は私に何を思っているんだろう。最初はドアを強めに閉めたり、聞こえるように消臭剤を撒いていたのに、今や私は彼と同罪。煙草吸いなのだ。彼は皮肉っぽく笑うだろうか。彼の笑顔は見たことがない。いつも無表情で、尖ったまなざしをしている。彼はどんなふうに笑うのだろう。それが、ひどく気になった。
仕切り越しに彼の息遣いが聞こえる。煙草を唇から離したときのポンという音。灰を落とすときのジュポという音、フッーという彼の息の音。私の内部でジュワという音がする。この音は、なに。答えはわかっていた。
彼と会いたい。煙草が奏でる音について、この景色について。話がしたい。その気持ちは抑えられそうになかった。けれど、彼に会う口実が見つからなかった。私は悶々として過ごした。
ある日、煙草を吸おうと、ベランダを開けると、ジジジッという音と共に、セミが一匹リビングに入ってきた。私は狂乱して、逃げ惑った。セミは天井に張り付いた。私はしめたと思った。夫はいないし、娘もまだ2歳だ。私は隣家の家の前まで来た。よし、困った様子を出さなきゃ。呼吸は少し荒いまま。チャイムを押そう。大丈夫。セミが入ってきたんだ。大丈夫。怪しまれない。セミが入って困っていることは本当なんだから。
ピンポーンという音がとても大きく感じた。そして、その後の静寂はやりきれないほど静かだった。
彼がインターホンに出た。「はい」とても低い声。「あの、すみません。隣の家の者なんですが」沈黙。苦情だと思われただろうか。私はすかさず「部屋に虫が入ってきてしまって。困ってるんです」静寂。胸がざわめいた。いろんな考えが脳を駆け巡る。するとガチャとドアが開く。「虫ですか」彼は言った。こんなに近い。「ええ、すみません。どうしても虫がだめで」その時の私の声には、申し訳なさも、虫への嫌悪感もこもっていなかっただろう。
「わかりました」彼は言った。私はもう飛び上がりそうだった。
彼を家に上げる。万が一他の住民に見られてもいいように「虫が本当だめで」としらじらしく普段より大きな声で私は言った。
「どこです」と彼。夫よりも低い声。腹の底に響いてくる声。
「あそこです」天井を指差す。
「棒ありますか」
私は風呂場からつっかえ棒を持ってくる。彼はそれを手に取る。
「電気を消して」え、どうして。
「明るい方に行くはず」彼はベランダのドアを開けながら言う。
私はそうかと思い電気を消す。
「下がっていてください」彼は棒でセミを突っつく。その瞬間ジジジッといってセミは羽ばたく。キャッと私は黄色い声を出す。
セミは壁にぶつかって、テレビ台の後ろに隠れる。
「出て行かないなあ」彼は言う。それからセミと彼との攻防は続き、彼も息が上がってくる。
「これでどうだ」彼は思いっきりセミを突っつく、セミはようやく、外に出る。
「ありがとうございます。すごい汗」
「厄介な相手だった」そういって彼は私に笑いかけた。彼の笑顔。無表情な普段とは違う、くしゃくしゃの笑顔。私はしばらくそれに見惚れていた。
彼にタオルを手渡す。彼は遠慮がちに汗を拭く。
時刻は、朝10時。
「一服しますか」私は煙草を見せて、彼に言う。
「ええ」彼は言う。
私たちはベランダに出る。煙草を渡すとき、彼の指と触れ合う。ライターを渡すとき、もう一度触れ合う。だけど彼は全然気にしてくれない。
パチッと彼は火をつけ、スッーと吸って、ポンと鳴らし、フッーと吐く。きれいな音。
私も彼のマネをして、パチッスッーポンフッーとやる。
彼は遠くの雲を見ていた。夏の雲。彼の目はやっぱり鋭くて、大学生ではないな。と私は思った。
私も彼のマネをして、遠くの雲を見て煙草をふかす。その時、彼が私を盗み見ていた。5秒。彼は私を見ていた。
煙草を吸い終えて、彼は出て行った。私はベランダで煙草を吸い続ける。戻ってくるかしら。仕切りの先に意識を集中する。30分ほどして、彼が来る。彼の煙草の臭いがする。私たちは仕切り越しに同じ時間を過ごす。煙草を吸いながら私は考える。
彼は私を5秒見た。それはどんな意味だろう。見惚れていたのだろうか。でも私の外見に快楽を感じていたなら、少し見てすぐ目を離すだろう。だとしたら、なんで5秒も。私はそんなにブサイクではないはず。でも美人だと思ったならすぐ目を離すだろうし。
私はそれを確かめたかった。彼はどうして5秒も私を見ていたのか。

次は、どんな口実で彼を連れ込もうか。煙草を吸いながら私はそればかり考えていた。

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