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方丈記 全訳注 安良岡康作 講談社学術文庫

「行く川の流れは絶えずして・・・」と言う有名な分で始まる冒頭以外殆ど読んだことがなかった作品で作者の人物像もさして知りもしなかった。恐らく国文研究者か、よほど惹かれる理由がある人でなければ同じようなものではないかと思われるが、有名なことには違いない。実は先行して原文のみの「岩波文庫版」を読んでいたのだが判然としない部分もあり同時に購入していた「全訳注」の学術文庫版を読むことにした。
岩波もさして難しい古語が出てくるわけではない。平安末期になると古文もい中々読みやすくなってくる。有難いことだが、語が分かったとしても分からない部分は多い。岩波版でも分かる通り、本文そのものは短くP9からP40までで終わっている。学術版では精細な訳と注を読むので、そこそこ時間はかかる。
さて、多くの人が気づく通り「1丈」の庵で書かれたとや・・この住いへの拘りは非常に面白い。最終的には自分の修業は生半可でしかないと悟?のだが、この栖(すみか)への考察も意味があるのだと言う。P275に栖についての5つの考察があるが、全く刮目して観るべき考察である。鴨長明は俗世を捨てきったわけではなく京から離れ住んだ遁世「世間の煩わしさから離れる 」生活に安楽したのであり、その悟りと修業は不徹底でしかない。
最終章にて鴨長明は蛇蝎のごとく書く
「栖はすなわち・・周梨槃特(しゅりはんどく)の行いだに及ばず」
栖=行の生活は、仏陀の直弟子であった周梨槃特「ちりとりを覚えれば箒を忘れ、箒を覚えればちりとりを忘れる」 姿を哀れんだ仏陀によって「一夏九旬(いっかくじゅう)の間一偈(いちげ)を教え」られ忽然と悟った僧侶、のその修業にも及ばなかった。それは正に栖(すみか)などに拘る、俗世のそばにある遁世生活者でしかない不徹底な自分だ・・・

そんな自分の行の生活を記したこの方丈記を閉じる言葉は
「不請(ふしょう)の阿弥陀仏、両三遍申して、止(や)みぬ」
この文こそ「方丈記」の最大問題であろう。
安良岡康作氏はこう解する。
「いやいやながらの阿弥陀仏を三回唱えて、もうこれきりにする」

この最終章の真意は未だ結論めいたものはなく研究者各位で論考が違っているのが現状ではある。
私は元より結論など持ち合わせていない。ただ、最終章の勢いのある印象は鴨長明の性格にもよるだろうと考えている。鴨長明の出家は実家である下賀茂神社に纏わる就職の失敗により、ある意味自暴自棄的な短慮によって決断実行されたと思えることなど、強情で柔軟性が少ない性格によると言われている。それを考えれば「阿弥陀仏を3回唱えて、もうやめた!」的なエンディングもありかと思われる。
皆さんも、多少は面白いと思いでしたら研究してみてご感想など聞かせて頂きたい。

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