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11年間の弟の夕飯作りを卒業する

弟が明後日家を出る。
就職して一年。思ったより早かったなぁと思う。
そして私の11年間(まあ私社会人、弟大学生の3年間はあまり作らなかったけど)の、平日夕飯作り生活が終わる。

私は中3ぐらいから、家事をするようになった。
するようになったと言ってもたまに洗濯して、買い物行って、夕飯を作る、ぐらい。
ただ、小学生ぐらいから洗濯を干すぐらいのお手伝いはしていたものの、母が専業主婦だったのもあり、中学に上がるぐらいまではほとんど何もしていなかった。そんな自分からしたらだいぶやっている感はあった。
家事をするようになった理由は簡単で、母親が仕事を始め、平日めちゃくちゃ忙しくなったから。因みに父親も帰ってくるのが遅い。その上、偶々池谷さんが好きになったばかりの頃で、池谷さんのブログに載っていたレシピを真似して作ってみていた時期だった。(その頃に出待ちで弟の為に池谷さんのレシピでご飯作ってるんです〜という話をしたらそれから6年ぐらいしてから、弟のために作ってるんでしょ?と言われて、池谷さんの記憶力に驚愕したのを思い出した)

勉強したくない、部活もやりたくない、そんな自分には家事はもってこいの言い訳だった。
高校からは自分のお弁当は自分で作っていた。高3になったら弟が偶に追加された。
学校が終わったらダッシュで家に帰り、夕飯を作って、ダッシュでライブに行く。ライブがない日に近所のスーパーで買い出しをした。今でもパートのおばちゃんに学生服だったから商品を聞いただけだ邪険に扱われたことを覚えている。
ただそれ以外は基本的に楽しい思い出ばかり。
心配する先生もいたが、当の本人は楽しくてやっていたので不思議だった。その心配してた先生、いじめの話した時は仕方ないみたいな感じだったのになーと今になって思う。

一回だけメンタルがしんどかった時に弟のご飯を作らず部屋に引きこもっていたら、反抗期の弟に
「無責任な!」
と言われ
「責任なんかねーよ!」
とブチギレ返したのを覚えている。当時私高1、弟中2とか。後にも先にも多分あの時だけだと思う。夕飯を作ることに反発したのは。

何かを生み出す作業が楽しかった。自分のしたことで誰かが喜んでくれることが嬉しかった。初めて周りからすごいと言われた。
努力のできないいじめられっ子の落ちこぼれだった私が、初めて人から評価されたことが料理だった。
そして生まれて初めてやりきることができたことが、夕飯作りになった。今は達成感に満ちている。

初めは本当に拙い料理だった。別に今だって上手くなんてないけど、まあ、不味くはないと思う。一般的なお母さんにはだいぶ近づいた気がする。
何もわからないところから、クックパッドと、池谷さんのブログを駆使して何とか作っていた。親に教えてもらえるような状況でもなかったから。あとその発想もなかった。
ただ一度も弟に味についての文句を言われたことはない。
自信がないから弟が食べるところは見ないようにしているけれども(それは今でもそう)比較的沢山食べてくれていた。
べちゃべちゃの炒飯や少し焦げた親子丼。崩れたカツ煮。
きっとあんまりだなぁと思ってる日もあったと思う。でも、食べてくれた。私にとってそれはすごく自信になった。
親が本当に口出すことなく自由に作らせてくれたのも感謝している。食材を自分で買いに行ってレシートを渡したらその金額をくれた。一言も何言われたことはない。よくこっそりお菓子や学校に持ってく製菓材料を買ってたのもいい思い出。
大して綺麗なご飯は作れないし、難しい料理も作れない。でも、冷蔵庫のあり物で男の子のお腹を満たす物ものをパパッと作る力だけはついたと思う。そしてきっとこれからの人生でとても使えるものだと思う。

2000回ぐらい、弟にご飯を出したのだろうか。そのご飯のどれかが、弟にとって思い出の味になってくれていたら嬉しいな。
そして、沢山のご飯という愛情を注いだのだから、人に愛情を注げる人になっていたらいいなと思う。

部活で忙しい時期はガッツリご飯、受験前は野菜多め、就職してからは運動量も減ったから肉ばかりじゃなくて、魚料理を増やしたり。
いろんな食材混ざってるのは好きじゃないから使う食材は3個ぐらいまで、寒いから鍋がいいかな。
考えながら作った日々は大変だったけど、本当に大事な思い出。

私は、来月からまともなご飯を食べるのだろうか。
長らく人のためにご飯を作ってきたせいで、自分のためのご飯という感覚がよくわからない。なんで自分のためのご飯作りって面倒なんだろうなー。今日の昼なんて中本のカップ飯と黒胡椒煎餅だし、でかいカルパスで終わりにすることにもある。
まあ、弟への愛情は注ぎ終わったし、自分に愛情注いであげてもいいかな。もう二十代後半だし、健康に気遣って生きないとな。