小学1年生の頃の話
<文字数:約13000字 読了目安時間:約26分>
身だしなみ
お母さんに「腕を広げて」と言われた。言われた通りにしたら、新しい服を着せられた。じゃあこれはどう?と言われ、次々に別の服を着せられた。普段優しい母は、身だしなみにはうるさく僕を何度も着せ替えた。母は以前は服屋で働いていたらしく、服が少しでもほつれているとミシンで修復した。小学校の入学式のために、身だしなみをきちんとしないといけないらしい。
小学校入学
僕はあだ名で「エスくん」と呼ばれた。
入学式は母と一緒だったが、次の日からは集団登校で近所の上級生たち率いる「班」という単位で登校することになった。3年生になった兄や、同じ1年生のB君も一緒である。幼稚園は2年間お世話になったが、小学校は6年間。果てしなく長い期間に思える。
「もう幼稚園児じゃないから甘えてはいけません」
「もう小学生なんだから自覚を持ってちゃんとしなさい」
口々に大人達が言った。厳しい環境になるのは本当に嫌だ。そう思ったが、実際はそれほど急に厳しい環境になる訳ではなかった。
様々な体験
いままでもそうだったのだが、いろいろな所に連れて行ってもらっている。大きな公園、海水浴、山登り、スキー、スケート、七五三、お祭り、相撲大会、子供会、動物園、遊園地、サーカス、演劇、お墓参り。
いろんな出来事で撮られた写真は、写真屋さんに行って、ネガを現像するというやつをやってもらうらしい。写真が沢山出来上がって、やがて分厚いアルバムになった。家族全員が笑顔で映っていた。僕も満面の笑顔だった。アルバムを開くと、メロディが流れる。写真を見れば赤ちゃんの頃の自分の姿も、今までのこともわかる。
やられたらやり返せ
学校で喧嘩をした。最終的に僕が我慢することで場を収めた。その事を夕食の時に言うと、父はこう言った。
「やられっぱなしは悔しいだろう。やられたら2倍にしてやり返せばええ。男の子はそういうモンだろ」
僕は全然そう思わなかった。そんなことしてたら、いつまでも戦いが終わらない。相手が同じ考え方だったら4倍にして返ってくるだろう。8倍16倍32倍64倍128倍256倍512倍1024倍2048倍4096倍になって、人を殺すことになってしまうだろう。うまく言葉にならなかったが、内心ではそのように考えた。やられてもやり返さない人がいるからこそ、平和な世の中が保たれていると思う。やり返す人間よりも、我慢できる人間の方が立派に思える。僕は立派な人間になりたい。父の価値観が良いものだとはあまり思えない。大人になれば変わるのだろうか?
「おかえし」という絵本
いろんな絵本や童話を読んだ。その中には、おかしいだろうと思った本もある。例えば「おかえし」という絵本である。タヌキのおばさんとキツネのおばさんが、送りものをし、そのお返しにまた送りものをし…その繰り返しになるというお話。お互いにそういう気持ちになるので、おかえしのおかえしのおかえしの…と無限ループになってしまうのだ。母をみていても、ご近所づきあいとして、ものを送ったり送られたりしているのをよく見る。貰ってばかりでは申し訳ないので、与えなければならない。確かにそういう気持ちはよくわかる。「鶴の恩返し」だって、助けてくれた恩返しとして自分の羽を使って機織りをしたのだし、恩義を感じてお返しをする気持ちは理解できる。「おかえし」では、善意の押し付け合いになってしまっている。このタヌキとキツネのおばさんはおかしい。頭が悪いんじゃないかと思う。無限ループを断ち切る方がお互いにとって良い生活になるのに。押し付けがましい善意は、本当に良い事なのか?良い事をすると気持ちが良い。最近読んだ漫画にもそう描かれていた。確かにそうだ。だからこそ、「善を為す事の満足感を人に譲る優しさ」もあるんじゃないだろうか?
机から鉛筆を落としてしまった時の事
困っている子がいたら助けましょう。助けられる優しい人になりましょう。何度も言われている当然の事だ。机から鉛筆を落としてしまったら、優しいクラスメイトがすぐに拾ってくれる。もちろんそのクラスメイトは称賛される。優しいクラスメイトが2人いた場合、そのうち1人しか拾う事が出来ない。拾おうと思ったら別のクラスメイトに拾われた時に、その人はどんな気持ちだろう。良い事を為そうとしても為せなかった事にがっかりするんじゃないか。
横断歩道を渡る時
「横断歩道を渡るときは、右を見て、左を見て、もう一度右を見て、手をあげて渡りましょう。」こんな風に何度も教わった。僕も友達も、みんなそのルールに従って渡った。
横断歩道を渡る時、止まってくれた車がいたら「どうぞどうぞ先に渡ってください」とジェスチャーをする同級生がいた。車の運転手は「ありがとうね~」という様子で走り去っていった。僕はその様子を見て疑問を持った。この同級生は優しすぎる。100点満点ではない。確かに、どうぞと言って、相手に先に行かせる事は良い事をしたみたいで気持ちいい。しかし、どうぞどうぞと相手に譲るばかりではなく、自分が先に渡ってあげる優しさもあるのではないだろうか。止まってくれた相手に甘えて譲られる勇気だ。真の優しさを持てる人にならなければ。
挨拶をしたくない
集団登校で学校に向かっていた。横断歩道を渡る時、旗を持って、交通整理をしているおばちゃん…通称「みどりのおばちゃん」がいる。ここを通る時、みんなが挨拶をする。
「「「おはようございまーす!」」」
みんなが声を張り上げて、みどりのおばちゃんに挨拶をする。何の疑いも持たず挨拶をする皆を冷静に見ていると、じゃあ、挨拶をしなかったらどうなるの?と疑問が湧いた。だから、あえて挨拶をせずに通り過ぎてみた。皆と同じようにするのは簡単だが、皆とは違う疑問を持つ事が僕にはできるのだ。挨拶する理由って、そもそも何だろう?みんな、その疑問をあまりにも持たなさすぎるのだ。こういう事を漠然と感じていた。
(形式的な挨拶をしていれば褒められるのか?大事なのは本心ではないか?)
(うわべだけの丁寧な言葉、お世辞、反省したフリ、そんな上っ面な態度が大事な事だとは思えない。)
(お手軽に相手から良く思われようとするお手軽な方法に頼りたくない。)
おじいちゃんの死
母の母、おばあちゃんの家に行く道中。父の運転する車で長い間眠る。おじいちゃんは食中毒で死んだ。60歳らしい。
僕をさんづけで呼んでくれる愉快なおじいちゃんだった。人間は60歳くらいになると死ぬらしい。たくさんの泣いている大人達がいる。全方位にすすり泣く声が聴こえ、何故かは全くわからないが、涙が流れて来た。つられてしまったのだと思う。人は高齢になると死ぬのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。
おばあちゃんの家
おばあちゃんの家で過ごすことになった。金さん銀さんという100歳の姉妹をテレビで観たが、どうやら人は100歳まで長生きすることもあるらしい。後から聞いた事だが、60歳の若さで夫を失ったショック状態のおばあちゃんを孤独にさせないように僕と兄がおばあちゃんの家で一緒に過ごす事になったという。そんなことなど何も知らない僕は、画用紙に絵や漫画を自由気ままに描きまくって遊んだ。
兄と僕との世界
自分の作った世界は最高に楽しい。なぜなら、そうなるように作ったからだ。兄と一緒になって漫画を気ままに描いていく。大きな画用紙に、縦に3本、横に3本の線で区切ると、4×4で16のコマが生まれる。区切ってしまえばこっちのもの、自由気ままに漫画を描ける。棒人間みたいな人物を描いて、主人公は僕と兄。「キングミノス」という兄が考えたラスボスを倒す為に戦う物語だ。いつものようにちんちんを出してるシーンを何気なく描いたら、父が珍しく参加して、その次に一コマだけ書き足した。「わいせつぶつちんれつざいでたいほされました」その意味はわからないが面白かった。主人公である僕が逮捕されたという事だ。急展開となったが、そこで登場する警察官の一人と意気投合して仲間に加わり、新たな冒険が始まった。僕と兄と警察官は果たしてキングミノスを倒せるのだろうか。この次はどんな展開を描いたら面白いだろうか。
兄と僕との世界2
布団の中で横になっている間にも、兄と小声で話している。その中で架空のRPGを繰り広げた。僕がルールを考えて、兄と暗闇の中で密かに行われるRPGだ。「敵が現れた!戦う?魔法?逃げる?」「東西南北どっちに向かう?」「城についた。王様から話を聞く?買い物をする?」ドラクエのような事を、口頭でやるのだ。
だが、完全オリジナルの特別なルールがある。「数えればHPになる」というルールだ。声を出して数えるか頭の中で数えるかはどっちでもよく、(いちにさんしごろく…)と、数を順番に数える。数えただけ、自分のHP(体力ともライフともいう)が加算される。やがて数をどこまでも数えていくと、兄は6000も数えていて驚いた。僕はまだ2000しか数えていないのに。
立ちはだかるのは僕が考えた「家具四天王」だ。「布団マン」「棚マン」「冷蔵庫マン」「洗濯機マン」「テレビマン」「タンスマン」という強力なボスを倒せば、ついにラスボスへの道が開かれる。そういう設定を考えた。兄のHPは30000に達していた。そんなに数を数えていたのか。僕はまだ8000に到達したばかりだ。兄は、頭の中で「にまんにせんななひゃくろくじゅうはち」「にまんにせんななひゃくろくじゅうきゅう」「にまんにせんななひゃくななじゅう」「にまんにせんななひゃくななじゅういち」と、延々とこうしてHPを増やしていたのか。僕は兄に勝てなくてちょっと悔しかった。
「あわせばんぞー」というアイテムを考えた。これを使えば新しく「いちにさんしごろく…」と、1から順番に数え直して、例えば300まで数えたとする。その300を自分の最大HPに足し算で追加することが可能になる。もちろん、あわせばんぞーはゲーム内で有料のアイテムだ。あわせばんぞーを使い続けているとやがて、少ない数を1から作業のように数えて最大HPを増やすようになり、あまり面白くなくなってしまった。今の自分と兄のHPがなんだったかもよくわからなくなってしまった。
ドラえもんを観てて思った
家で様々なアニメを観てて思う事がある。幼稚園児の頃からこういう事はつくづく思っていたけど、例えばドラえもんで、のび太が本当はいいことをしているのに、ジャイアン等に「どうせ俺達を馬鹿にしているんだろう!」などと勘違いされてボコボコに殴られるシーンが何度もある。こういうシーンを見るたびに、「あーもう!なんでだよ!」と、イライラを感じた。主人公が良い事をしているのに周囲に全然伝わらず勘違いされて、裏目に出て、酷い目に遭う展開…もう嫌だ。良い事をしているなら、報われて欲しい。あらゆるアニメを見ていて、一番不愉快に思う事だった。不快なアニメを見たくない。悪い奴を倒してスカッとさせてくれと思った。
二宮金次郎
二宮金次郎という人間の像が学校に建てられている。薪を背負いながら読書する偉人の像だ。昔の人らしいのだが、彼のような勤勉さが大事らしい。自分もあのようになりたい…かもしれないが、自分がそんな領域に達することは無いだろう。多分。
春の風はかけてゆく
校内放送ではいつも「春の風」という曲の1番と2番が流される。しかし噂によると、「幻の第3番」があるという。3番は「レンゲにタンポポつくしんぼ」という歌詞らしい。その事をいち早く知った僕は、同じクラスのみんなに得意気に教えて回っていた。「うそー!?」とみんなが驚いている。僕は皆の知らなかった事を知っていて、いち早くそれを皆に教えてあげた。嬉しい。しかし翌日、このような事を言われた。「おめー、嘘ついたな!俺のにーちゃんに聞いたら、そんなもんねーよって言ってたぞ!」困惑した。幻の第3番はあるはずだ。絶対にあるはずなのに。いや、ないのだろうか?そうだとしたら、僕は嘘をついて回っていたのだろうか?そもそも僕は何故、幻の第3番があると、あそこまで強く信じたんだっけ?僕は自分の事が少しだけ信じられなくなりそうだった。後日になって、幻の第3番は本当にある事がわかった。図書館にある音楽の本の中に歌詞を確認できた。その中には例の「レンゲにタンポポつくしんぼ」が書かれていた。ほら、やっぱりあるんじゃん!僕が正しかったんじゃん!
静かにして
教室内で好き勝手に大声で騒いでいた。すると真面目な生徒が、
「静かにしてください!」
と言った。ちょっと騒ぎ過ぎたようだ。少し静かにしようと思った。
でも、言葉の通りに受け止めるなら、静かにしてくださいというのは「しずかちゃんに変える魔法を使って欲しい」という事かな?と解釈できる事に気が付いて、面白い事を思いついたような気持ちになった。僕はそれを披露したくてウズウズする気持ちで、
「ドラえもんのしずかちゃんにする魔法!しずかちゃんになれ~!!」
などと叫んだ。「静かにしてください!」と叫ぶ真面目な子に、望み通りにしてやるよ!という気持ちだった。教室内は、叫んでいる人間だらけになった。「静かにしてください!」という呼びかけには効果があるんだか無いんだかよくわからない。
そこで、さらに大きな声で「静かにしてください!」と声を張り上げると、教室内はもっとうるさくなる。「静かにしてください!」が3人も4人もいて、どんどん大きくなっていった。どうしようもなく、逆効果でしかない。収拾がつかないのを感じた。
デカい声
それら全部を上回るほどのとんでもなくデカい声で叫んだら、皆を黙らせる事ができるのではないか。僕は全身全霊でとんでもない大声を出した。
「静かにしろおおおおお!」
僕の声は誰よりも大きかった。すると、教室は静かになった。教室を静かにすることに成功した。
また静かにして
別の日、またしても教室が騒がしくなった。僕がいくら頑張って大声を出しても、教室は静かにならない。
その時、先生が怒鳴り声をあげた。一瞬で教室が静まり返った。恐怖が教室を包み、嫌な気分になった。でも、これ以外の方法は無かったかもしれない。大人の太くてデカい声には迫力がある。子供はそれにひれ伏すしかなかった。僕はその状況について冷静に考え始めた。教室で騒いでるみんなを静かにさせようと思ったら、どうすればいい?
またデカい声
僕は、大人である先生よりも、さらにデカい声を出す事で教室を静まり返らせる事を考えた。本気を出して叫ぶと、大人も驚くほどの物凄いデカい声が出せるのだ。めちゃくちゃにデカい声は、全てを解決するのだった。先生をも超える声を出して教室を制圧しようとしたとき、ついに先生から直接ぶっ叩かれるのだった。
家での遊び
相変らず、B君とは外でボールで遊んだり家でスーファミなどで遊んだりしていた。近所によく捨ててあった石灰の板材のようなものをチョークとしてアスファルトに落書きをして遊んだ。道と畑を区切るためのパイプ製の仕切りの上を平均台と見立ててどこまで歩けるか、といった遊びだ。地面に沢山の絵を描いて遊んだ。B君は僕よりも絵が下手で、僕は自分がもっと上手に絵が描けるようになる事に興味があった。
泣かなくなってきた
遊んでいると時々ケガをする事がある。血が出た時、「ちがが出た」と言った。最近は、擦り傷や切り傷で血が出ても、我慢できる。滅多に泣かなくなった。
竹馬飛び
ある日、「竹馬飛び」というオリジナルの遊びを考案した。ここで僕がいう竹馬とは、1.5mほどのパイプに足を乗せるためのパーツが適度な高さにくっついたものが2組あるものだ。その竹馬の片側だけを使って、チョークで描いた線からどこまで遠くまでジャンプできるか、足を離した地点から、足を着地させた地点までの距離をどれだけ伸ばせるかという遊び、それが竹馬飛びだ。棒高跳びが少しこれに近いかもしれない。この遊びを自分で考案し、自分で極めるという事をひたすらにやっていた。B君や兄もこれをやったが、僕がいつも一番だった。やがて、大人達も驚くような物凄いジャンプができるようになっていた。自分の能力の高さを認められると気分が良かった。
B君の家が新しく生まれ変わる
B君の家が新しく建て直されることになった。大工さん達が工事をしている。一か月ほどで家が建つらしい。コンクリートの白い迷路みたいな土台から、鉄のネジみたいな棒が飛び出している。学校から帰る度に家がどんどん作られていく様子は面白かった。
B君の家の完成
そして一か月後、家がついに完成した。それは白く綺麗で大きな家だった。僕はB君の新しい家に招待されて、新しい家の匂いを体験した。これからはB君の新しい家で一緒にゲームで遊べる。
早速家に誘われた。トイレも最新の洋式で、気持ち良い雰囲気だ。
自転車に乗る練習
今までコマのついた自転車に乗っていたが、そろそろコマを外して2輪で自転車に乗れるようにならなければならないようだ。実際に自転車のサドルにまたがって、ペダルをこいだ。すぐに右か左かに倒れてしまう。倒れると怪我をして、痛くて泣きそうになる。怪我をするのならもう倒れたくない。勇気を出さなければ自転車に乗れるようにならない。周囲の大人、お兄さんお姉さん達が僕を応援してくれている。コツがあるらしいが、実際にどうすればいいのかわからない。それを信じて怪我をするリスクを越えた時、スッと乗れるようになった。右に倒れそうになったらハンドルを右に、左なら左に…それを身体で分かった。身体と自転車が一体化したという感覚だ。僕が自転車に乗れるようになったことで、周囲の大人達は盛大に僕を祝ってくれた。
空想癖
授業中、うわの空になってしまう。頭の中で、常にいろんなオリジナル音楽、ストーリー、ゲーム等、様々な事を思いつく。いつもそんな状態だったので困った。教室の前で先生が話していても、ちょっと長めの話になるといつの間にか自分の妄想の世界に没頭してしまうのである。
「あれ?今先生なにか話してた?」
気づいた時には置いてけぼりになってしまうのだった。みんな、教室を出て行ってしまった。僕だけがぽつんと独り教室にいる。何故なのかわからない。このように周囲とテンポが合わない事をよく感じていた。
オリジナル音楽
オリジナルの音楽を考えた。ゲームのBGMのような音楽だ。いろんな複雑な音が頭の中でしっかりと鳴っている。楽器のことは何もわからないが、頭の中で鳴らす事は簡単だ。頭の中の音を鼻歌で歌う事は、一応なんとかできる。独りでいる時はいつも鼻歌を歌っているからだ。
「テレレテレレレーテレレレーテレレテレレテレテレレレレ」
「テッテレーテッテレーテレレレ-」
「テーーッッテーテテーッテーテテーッ」
こんな風に思いついた音楽をノートに書いて、自分の頭の中にあるメロディをなんとか記述して残そうとした。母は僕の書いたそれを見て笑った。
「ふふふ!まーたそれ書いてる!」
カラオケがじゃいも
いつもいつも、気ままに好きな歌を歌っていた。ある日、家族や親戚を含めた皆で、カラオケに行くことになった。
「これを歌えるでしょ。」
「がじゃいも」という「とんねるず」の曲だ。カラオケの個室でマイクを持って、壇上に立ち、イントロが流れ出す。知っている曲だし、歌える。しかし、自分はどうしてわざわざ歌っているんだろうというような気持ちになった。全然気乗りしない。歌うのは好きでも、歌えと言われて歌わされる事は嫌だ。
オリジナルゲーム
オリジナルのゲームを頭の中で考えていた。マリオとドラクエを組み合わせたアクションRPGだ。またはテトリスやシューティングゲームと組み合わせて、あんなこともこんなこともできるはずだ。 そうやって頭の中でずっと妄想を繰り広げた。いつか形になって欲しい妄想だ。アイテムがこの瞬間に来て、移動すればその確率が下がって、スキルによってボスの強さが変動もする。そういう事を考え続けた。
図画工作
普段はうんこの落書きばかりしている僕だが、図工の授業で作った工作がみんなから絶賛された。「すげえ!先生も見てよ!」先生も「凄いね。才能があるかも。」と言った。自分には図画工作の才能があるのではないか。ものを作るのは楽しい。授業時間が終わっても、自分が満足できるまではずっと作っていたい。「凝り性」とよく言われるようになった。いつもなにか頭の中で、いろんな事を組み合わせて遊んでいる。そうしていると楽しい。空想にふけっていると、そのせいで人の話が上の空になることがあった。できるものなら、ゲームクリエイターにでもなってみたいし、漫画家にもなりたい。大工さんにもなりたいし、ロボットを作りたい。ロケットを作る人にもなりたい。とにかく、なにかを作る人になりたいと思った。
自由帳を使って友達を作った
僕は「じゆうちょう」に自分の空想を描いていた。いろんな迷路、キャラクター、クイズ、様々な想像を形にしていた。僕が描いていると、クラスメイト達が良いリアクションで叫んだ。
「すっげー面白い!」
僕が友達を作る方法はこれだと思った。友達の誕生日にもビー玉を転がす迷路を段ボールで作ってプレゼントすることで親睦を深めた。
台風から助けてくれる母
ある日、物凄い台風が襲ってきた。母と一緒に家に帰っている途中で、突然物凄い暴風雨が襲った。僕は母にしがみついた。大人である母にしがみついてさえいれば安心だからだ。物凄い風と雨の音が聞こえた。驚いたのは、母もじっと踏ん張って強風に耐えていた事だ。それでも母なら守ってくれると信じて、しがみつくしかなかった。少しでも安全な場所に行って雨宿りをし、雨と風が弱くなるまでただ待っていた。
海で溺れた
家族で「海」に行った。砂も水も心地よく、砂遊びも水遊びもできる。なんでも楽しめる。ちなみに僕は泳ぐ能力は無い。海で遊ぶにも、「足の着く範囲で」と言われていた。海の方に行くと、深くなっていて危険らしい。だから一人で遊んでいた。父と母は砂浜でくつろいでいるようだ。少し冒険して、ちょっとだけ水深の深い所まで行ってみようと思った。沖に向かって波が激しくなり、いつの間にか足が着かなくなった。海流が僕を沖に連れ去る方向に流れている事に気づいた。あれ?海にこのまま連れ去られるのか?流される!死ぬのでは?鼻から水が入り、呼吸ができなくなった。頭が一瞬真っ白になった。
僕の腕が誰かに掴まれた。陸に向かって強い力で引っ張られた。砂浜に引き上げた人物は、兄だった。兄は僕よりも身長が10cm高いだけで、泳げるわけではないのだが、流される僕を助けようとしてくれたのだった。
水泳の習い事をするためスイミングに通うようになった。あのAちゃんも通っていたらしいスクールだ。僕が通う事に決めると、兄もつられて通うことにした。
父とテレビ
父はテレビ番組を観ながら率直な感想を言う。
「おもしれえ!」「つまらん!」「なんならこれ!」「これ良さそうだな!」「おかしいだろう!」
内容に対して、分かりやすく感想を言ってくれる。ただ、その内容が政治経済のようなニュースだった場合については全然わからない。
プリントの採点に不満
小テストの時間だ。プリントが配られる。これはなんでしょう?と書かれた隣に、パイナップルの絵が描かれている。「パイナップル」と書くべきか、それとも「パインアップル」と書くべきか。それが問題だ。こういう場面では、正式名称で書かなければおそらく正解にならない。より丁寧な、「パインアップル」の方が正解の可能性が高い。その調子で、「メリーゴーランド」の絵に対して「メリーゴーラウンド」と書いた。全問正解を狙える完璧な回答を書いて、プリントを提出した。
後日、そのプリントが採点されて返ってきた。なんと例の「パインアップル」にはバツ印がつけられており、「パイナップル」と赤で書かれていた。「メリーゴーラウンド」も「ウ」の所にバツ印がつけられていた。僕の回答も間違ってはいないはず。納得いかない。先生に聞いてみた。先生によると、
「こっちが正解だからね…。」
という。よく意味がわからない。もっと正しい書き方を書いたはずなのに…。どれだけ不満だとしても、そういうものなのだろうか。これからは、先生の期待する答を考えなければならないのか?
歯に関する大事件
前歯がぐらぐら揺れた。「子供の歯」がポロッと落ち、歯抜けの状態になった。落ちた歯は、家の屋根や床下に投げると縁起が良いらしい。僕は大袈裟なほどに振りかぶって自分の歯を投げた。これからは永久歯…いわゆる「大人の歯」に生え変わるのだから、そのためのゲン担ぎのようなものだそうだ。子供の歯は子供の内だけの付き合いだ。生え変わった歯は「永久歯」の名の通り一生の付き合いとなる。そして間もなくして大人の歯が生えてきた。大人の歯は急速に伸びていき、しっかりと固いものを噛めるようになった。
そういえば明日から冬休みだ。もう生徒の皆はほとんど帰っていて、放課後の教室には僕と先生がいた。夕日で赤くなった教室の中で、僕はいつものように机で振り子をしていた。つまり、右の机に右手をつけ、左の机に左手をつけ、グッと身体を持ち上げて、振り子のようにゆらーりゆらーりと身体を揺らす。これが振り子だ。その揺れは激しさを増す。天井と床が周期的に入れ替わる。重力の感覚が上と下に変化する。お腹と背中に交互に風を感じる。どこまで激しく揺らせるかな?と、限界に挑戦してみた。その時起きた事は忘れない。勢いをつけすぎて体がふわりと浮き、手のひらは机から離れ、体が宙に浮いた。重力に従って風景が縦に回転しながら体は投げ飛ばされ、上下感覚が無くなった。顔と床が接触した時、変な音が鳴った。起き上がると、先生が見た事の無い表情をしていることに気づいた。痛みが急速に鋭さを増していく。赤い血がボタボタと流れ落ちているが、そんなことはどうでもいい。とにかく痛い。痛くて痛くて、もう駄目だ。何も考えられない。歯と舌の感触がいつもと全然違う。いつも舌があるあたりのポジションまで、上の前歯が下がっているような気がする。歯が変になってしまった!僕は涙をボロボロ流しながら、先生と保健室に行った。保健室ではどうやら治療ができないらしい。先生達が電話をかけている。痛みは耐えられない程に大きくなっていった。「ウ~!ウ~!」という呻き声が勝手に出てくる。痛みが凄まじくて、そうする事しか出来なくなった。タクシーに乗せられて病院へ。激痛のあまり、なにがなんだかわからない。でも、タクシーにはお母さんが乗っていた。お母さんはいつも緊急事態には駆けつけてくれる。だから安心できた。大きな病院に運ばれ、歯の手術を受けた。なされるがまま、人生で最大の痛みを感じていた。この時、エスの上顎は砕けていた。大人の歯6本が根元から割れていた。子供の高い再生力を前提とした手術を受けた。気が付いた時には痛みは治まっていた。一応は歯の繋がる処置を受けたらしい。だが、固いものは食べてはいけないそうだ。明日からは、普通に学校にも行けるようになった。
フリカケ事件
これから登校しようという時に、母がフリカケを持たせてくれた。「これを給食のごはんにかけてね。」歯の治療中である今の僕には、柔らかいものしか食べられない。だからせめて少しでも栄養の足しに…という事らしい。給食中、僕がごはんにフリカケをかけた途端、周囲が大騒ぎになった。
「あー!フリカケかけてる!」
「羨ましい!ズルい!」
先生が僕を注意した。明日からはやめてね、と言われた。僕は困惑した。母に言われたからそうしたのに。このことを帰って母に言うと、「先生は誤解してるよ。」と言った。大人同士にも意見の食い違いがあるらしい。大人のいう事は絶対に正しいのだと思っていたが、そうでもないようだ。本当に正しい事って何だろう。いつかそれが分かるようになりたい。
カエルが怖い
テレビを見ていると、突然出てきたカエルのキャラクターが凄く気持ち悪く感じて、ゾッとして本当に泣きそうになり、生理的に嫌悪感があって、カエルの事を思い出すのも嫌だった。
カエル嫌いが伝わる
その事が何故か周りに伝わり、カエルが嫌いだという噂が周囲に広まった。はじめは兄が僕に「カエル!カエル!カエル!」とからかって来たが、兄が飽きる頃には、時間差で様々な友達や上級生、イトコのお兄さんにも伝わっていた。集団登校の上級生達が、僕に「カエル!カエル!カエル!」とからかって来るようになった。僕が眉をひそめる様子を見て、笑っているのだ。
ゲームでの敗北
アクションゲームが得意で、マリオやカービィでは誰にも負ける事が無かった。いつもみんなを驚かせた。ある日、イトコのお兄さんと対戦格闘ゲーム「ストリートファイター2」通称ストツーをする機会があった。僕は「ブランカ」というキャラが得意だった。イトコのお兄さんはこう言った。
「ブランカが得意だって言ったな?よっしゃ!ボコボコにしてやるからな!」
イトコのお兄さんには全くダメージを与えられず、本当にボコボコに負けてしまった。パーフェクト負けだ。まさかこの僕が、ゲームでこんなに手も足も出ないなんて、信じられない体験だった。認めたくなかった。落ち込むような、腹が立つような、井戸の底の方で闇がグルグル回るような気分を体験した。どうして勝てないのかも全くわからなかった。
立ち入り禁止のキッズコーナー
デパートのキッズコーナーのボールの敷き詰められた遊技場が好きだ。うおー!といつものように遊んでいたら、知らない大人が大きな声で注意してきた。
「そこは立ち入り禁止だから出なさい!」
気が付かなかったが、確かに「立ち入り禁止」と入口に書いてあるようだった。禁止されていることをやってしまった。しかも、父も母もいない場所でだ。
あんごう
ある雨の日に信号待ちの車と壁の狭い間を傘をさしながら無理やり通ろうとした。車の運転手のおばさんが窓を開けた。僕に向かって口を大きく開いた。
「あんごう!」
と叫んだ。これは後に「ばか」を意味する方言だと知った。
他人の大人から咎められたのがショックで、いつまでも声が頭の中で残った。
クソガキの自分
知らない大人に怒られるのは、父や母や先生に怒られるよりもショックが大きい。注意された瞬間は特になにも思わないのだが、何度も何度も思い出しては嫌な気持ちになってしまう。
自分が悪い事をしたら自分が罪悪感を背負う。
次へ
こんな経験をしながら、「僕」であり「エス」は2年生になっていく。
https://note.com/denkaisitwo/n/ned1770c38107
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