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空想考古学・邪馬台国はココだ!#2 『魏志倭人伝』解釈の違和感

 「群盲ぐんもう、象をでる」という諺があります。この諺は、「大勢の盲人が象の体を撫でると、各々が自分の触れた部分の印象からしか象を把握できず、象の全体像についてはわからないということから、 平凡な人間には偉大な人物や大事業などの一部分に触れただけでは、正しい評価をしたり、全体を見通したりはできないということ」です。現在の邪馬台国論争は、この諺と同じ状態に陥っている気がします。

 魏志倭人伝は、有名な次の一節から始まります。

『倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國 ・・・』

 この一節は、Wikiでは(説明文を補って)以下のように訳されています。『倭人は帯方(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に住み山島に依って国邑(諸候の封地)をつくる。もとは百余国。漢のときに朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国である。・・・』

 この冒頭部分に拘っている人は殆どいないと思いますが、私はこの部分に拘りたいと思います。現代の日本人なら、日本は島国であることは知っていますし、おおよその日本列島の形はわかります。しかし、正確な地図もない時代に、異国に関する記述だけから、その国を想像するのはかなり難しいことです。

 この最初の文章は非常に重要だと思うのですが、何故だか多くの研究者が素通り(スルー)します。私は初めてこの文章を読んだ時に想像した邪馬台国は、「大きな海にポツンと浮かぶ小さな島」でした。日本列島は確かに島国ですが、朝鮮半島から渡った九州はそれなりに大きいですし、本州となればもっと大きな島です。世界地図を知っている現代人なら、日本列島は小さいという印象を持つ人も多いかもしれませんが、そのような情報が無い当時の人たちが、日本をちっぽけな島国と考えたのでしょうか?。

 それから、気になるのはクニ(国)の認識です。この当時のクニは今の町村レベルの大きさだと想像しますが、”地続きのクニ”をどうやって区別していたのでしょうか?。山や川で地域を明確に区別できれば、ここが○○国だと簡単に認識できますが、そう簡単に区別できない場所(クニ)も多いように思います。しかし、島ならどうでしょうか。海を隔てて存在する島なら、クニとクニの区別が簡単につきます。

 私が想像する邪馬台国は、『ある島(クニ)を中心とし、多くの島々(クニ)を勢力圏に置いた島嶼連合国』です。”ある島”というのはもう少し後で説明しますが、このような邪馬台国を島嶼とうしょ連合国家(クニの集合体)と考える事は、前記事に書いた10項目の疑問に答える重要なカギになっています。魏志倭人伝にも、”依山㠀爲國邑”とはっきりと書かれています。

 これから、さらに踏み込んだ空想考古学を展開していきますが、私は邪馬台国説を検証してく過程で、陳寿によって書かれたとされる魏志倭人伝は、「かなり正確に記述されている」という印象を持ちました。おそらく、少ない伝聞情報を駆使して、できるだけ正しい情報を後世に伝えようとしたのだと思います。魏志倭人伝は、研究者の都合で、方角や距離を勝手に変更していいものではないのです。

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