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ウロボロスの遺伝子(3) 第1章 内閣府危機管理局②

 少し間を開けるように、鬼塚がゆっくりと呟いた。
「今回の仕事は、この件とも密接に関係がある。今回も誘拐事件だ」
「今度は誰が誘拐されたんですか?」赤城と黒田が同時に言った。
「今度はもっと小さい・・・・・・」鬼塚が言い澱んだ。
「五歳の康幸ちゃんよりも小さいというと、乳幼児ですか? 卑劣な犯人ですね!」鬼塚の言葉を遮るように、赤城が心配そうに聞いた。
「いや、もっと小さい。というより目に見えない・・・・・・」鬼塚が唸るように答えた。
「目に見えない・・・・・・」赤城が言った。
「透明人間ですか?・・・・・・」黒田が赤城に続けて言った。
「乳幼児でも透明人間でもない。対象はウイルスだ。強毒性の鳥インフルエンザウイルスが盗まれた」
「えっ!」と二人が同時に驚いた。

「このウイルスはワクチン研究用だ。ウイルスは国立ワクチン研究所のセキュリティの堅牢な場所に厳重に保管されていたが、二週間ほど前に何者かに盗まれてしまった」鬼塚が悔しそうに言った。
「しかし、実際に鳥インフルエンザウイルスが盗まれたことがわかったのは、先ほど毛利首相に直接届いた脅迫メールからだ。毛利首相から相談を受けて、真偽を確かめるために私がワクチン研究所の所長に問い合わせたところ、残念ながら盗まれていることが確認できた」
「ウイルス盗難の情報が世間に広まって、人々がパニックになるのを防ぐため、このことは今のところ毛利首相と我々、そしてワクチン研究所の限られた人しか知らない」
「それから、ウイルス拡散の脅迫が犯人からあったのは、いまから五時間前のことだ」鬼塚が事件の経緯を手短に説明した。
「このことは絶対に外部に漏らしてはならん。わかったな」鬼塚が厳命した。

「犯人はウイルスをバラ撒くぞと、首相つまり国を脅している訳ですね。とんでもない奴だ!」黒田が感情を露わにして言った。
「ところで、犯人から何らかの要求はあったんですか?」冷静な赤城が質問した。
「身代金の要求があった」と鬼塚が答えた。
「ウイルスの身代金の額は、一体いくらなんですか?」黒田が興奮した様子で鬼塚に聞いた。
「五十億円だ」鬼塚が静かに答えた。
「――五十億円。大金過ぎて、ちょっと実感のわかない金額ですね」
「正確には五十億円相当のデジタルマネーが、犯人の要求だ。君達は『ネットコイン』のことを知っているか?」鬼塚が二人に聞いた。
「ネットで使えるコインということですか?」と黒田が考えずに反射的に答えた。
「単純に言えばそういうことだが、少し違う。赤城は知っているか?」と鬼塚が聞いた。

「ここ最近、急速に普及し始めたネット上の仮想通貨のことですね。仮想通貨は暗号資産とも呼ばれているみたいですね。私は使ったことはありませんが、経済産業省にいたので、その話は時々耳にしていました。このネットコインは匿名性が高く、セキュリティがしっかりしているので、数ある仮想通貨のなかでもここ数年で取引量が急増していると聞いています。しかし、価値の変動が激しいことが問題点として指摘されています。また、そのセキュリティが悪用されてマネーロンダリングに利用されているという悪い噂も聞いています」経済産業省出身で経済に明るい赤城らしく、明確な答えが返ってきた。

「さすがによく知っているな。実は、ネットコインは身代金の送金にも最適らしい。どんなに高額でも、紙幣が詰まったトランクとは違って嵩張らないし、紙幣の番号を控えることもできない。送金しようとすれば一秒もかからずに送れてしまう。さらに、一旦送金してしまえば、身代金を追跡することは不可能だ。捜査する方にとっては、かなりやっかいな代物だ」
「それから身代金以上に困ったことは、今回のウイルス盗難事件が大規模な生物兵器によるテロ、つまりバイオテロにつながるかもしれないということだ」鬼塚は腕組みをしたまま唸った。
「不名誉なことだが、地下鉄サリン事件は世界で初めての化学兵器によるテロ事件だ。今回の事件が、世界で初めてのバイオテロ事件となれば、不名誉な記録を重ねることになる」

 赤みがかったピンク色に上気した鬼塚の顔は、まさに赤鬼のような憤怒(ふんぬ)の形相であった。
「日本国政府にとって、五十億円は小さな額ではないが、払えない金額ではない。ただし、五十億円を払ったからといって、ウイルスが戻ってくる保証はどこにもない。そこで、君たちの出番だ。君たちには、この件を秘密裏に調べて欲しい」と鬼塚が言った。

「ということは、まずは国立ワクチン研究所ですね。明日にでも二人で行ってきます」と早合点した黒田が言った。二人が鬼塚の指示を待っていると、予想外の言葉が返ってきた。
「そこで、君たち二人には奥多摩にある星久保(ほしくぼ)村に行って、仙石善人(よしと)なる人物と会って話を聞いてきて欲しい。詳しい住所と地図情報は後で連絡用の情報端末に転送しておくから、それを見てくれ。約束の時間は明日の午前十一時だ」
「ところで、どうして私達二人がこの仕事に選ばれたんでしょうか?」と赤城が聞いた。
「どこで調べたのかわからんが、先方からの指名だそうだ」と鬼塚が短く答えた。
 最後に、現在までにわかっている事実と、これからの仕事の概要を鬼塚が説明して打ち合わせが終了した。

「今日はもう遅い。家に帰って明日の出張に備えてくれ。強毒性の鳥インフルエンザウイルスが拡散されれば、ニワトリなどの畜産物に多くの被害がでる。また人型ウイルスに変異すれば、人命にも関わる。気を引き締めて仕事に臨んでくれ。これは総理からの要請でもある。以上だ」
 黒田が腕時計を見ると、既に十一時をかなり過ぎていた。
「赤城主任、駅まで送りましょうか。深夜の若い女性の一人歩きは危険ですよ」黒田が心配そうな顔で言った。
「いいえ、結構です。子供じゃありませんから。これでも自分の身を守ることぐらいできます」

 赤城はやや高圧的な態度で黒田に返事をした。赤城は高校時代の苦い記憶を思い起こしていた。


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