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ウロボロスの遺伝子(2) 第1章 内閣府危機管理局①

 あれから三度目の秋が過ぎ去った。今度の冬は例年に比べて暖冬になると言われた気象庁の予想に反して、年末は都内でも十センチの積雪に見舞われた。年明けは寒さも幾分和らいだが、内閣府危機管理局は、慌ただしい新年を迎えていた。危機管理局は国際的なテロ活動や地震・火山噴火・津波などの大規模な自然災害に備えて、昨年末に内閣府に設置された総理大臣直属の政府機関である。多くの省庁から希望者を募って設置された寄せ集めの部署のため、まだ専用の建物はなく、首相官邸の一部を間借りしてその活動を始めたばかりである。まだ発足間もないため、危機管理局の構成員の人数は少ないが、将来起こりうる様々な危機に対応すべく、局内は活気で満ち溢《あふ》れていた。
「なかなか荷物が片づかないわ」
 雑然とした自分用の机の上を見ながら、赤城百花(あかぎももか)が小さな声で独り言を言った。主任管理官の赤城は、六年前に東大経済学部を卒業して国家公務員の総合職試験に合格した、いわゆるキャリア組である。採用された経済産業省では、主に国際貿易に関する多国間交渉の仕事をしていたが、昨年末の危機管理局の発足に伴い、本人の強い希望で内閣府危機管理局へ移ってきた。昨年末の急な人事異動だったため、年が明けて仕事始めになっても、まだ引っ越しの荷物が整理できていない。
 時計の針はすでに午後十時をまわり、そろそろ帰ろうかと赤城が帰り支度を始めた頃、危機管理局局長の鬼塚健一が赤城の机に近づいて来た。鬼塚はラグビー選手のようながっしりした体型で、その名前の通り鬼面のような厳つい顔をしている。その顔のせいで初対面の人には取っ付き難い印象を与えるが、見た目とは正反対に性格温厚で部下の面倒見も良い。そのため、危機管理局発足前に勤めていた部署では、部下から親しみを込めてオニケンさんと呼ばれていた。その鬼塚が言った。
「赤城君、今年の初仕事だ。ミーティングするので会議室まで一緒に来てくれ」
 赤城が、「どのような仕事だろう」と緊張しつつ同じフロアにある会議室に向かうと、そこには既に先客がいた。
「赤城主任管理官、こちらは警察庁から移ってきた君の部下になる黒田管理官だ。これから君とペアを組んで仕事をしてもらう」と鬼塚が黒田を紹介した。
 黒田保夫は、身長こそ赤城より二十センチ以上高いが、痩せ型で華奢な体形をしていた。さらに、見るからに冴えない貧相な風貌で、近頃では珍しい太いフレームの黒縁眼鏡をかけていた。また、薄くなった頭頂部を補うように、横に残った毛髪を最大限に利用して、几帳面な七三分けにしていた。ただし、服装のセンスは上品で、外国製の細身のスーツを着こなしていた。
「赤城管理官、警察庁から出向してきた黒田です。よろしくお願いします。どんな人と組まされるのかと心配していたんですが、若くてかわいい女性で良かったです」と黒田が自己紹介をした。
「黒田管理官、言動には充分気を付けて下さい。場合によっては、セクハラになりますよ」と赤城がたしなめた。人を見た目や言動で判断できないことは頭では十分にわかっている赤城でも、仕事のパートナーを組む黒田への失望感を顔の表情から隠すことができなかった。
「つい思ったことが口から出ちゃうんですよ。以後、言動には気を付けます」黒田は悪びれずに謝って、警官の敬礼のポーズをした。
「お互いの紹介は追々することにして、今回の仕事のことを話そう。最初に断っておくが、かなり難しい仕事になりそうだ。覚悟しておいてくれ」鬼塚が緊迫した様子で切り出した。
「少し前のことになるが、二人は『康幸ちゃん誘拐事件』のことは覚えているな」と確認するように鬼塚が聞いた。
「もちろんです。私も以前の職場で捜査員の一人として、その誘拐捜査に加わっていました」黒田が先に答えた。
「毛利首相のご子息の誘拐事件ですから、誰でも知っていると思います。でも、早期に解決して本当に良かったですね」赤城も続けて答えた。
『康幸ちゃん誘拐事件』は、当時野党の民自党党首である毛利元康(もとやす)の一人息子が誘拐された事件として、事件解決後も新聞・雑誌やテレビで繰り返し報道されていた。世間では知らない人がいない三年前の幼児誘拐事件である。その誘拐事件で一気に知名度の上がった毛利は、世間の同情的な雰囲気もあり、その後の衆議院選挙で野党を大勝に導き、現在は歴代最年少の内閣総理大臣として日本国の舵取りを任されている。
「この事件が解決して良かったのは、その通りだ。ただし、事件解決の仕方が少し、いや、かなり変わっていたんだ」鬼塚が言った。
「何が変わっていたんですか。この事件は早期に解決されたし、日本の警察の優秀さが証明された記念碑的な誘拐事件じゃないですか」黒田がやや不満げに鬼塚に抗議した。
「公にされていないんだが、実は事件解決のきっかけは、毛利党首本人に届いた善意の第三者からの匿名メールだったそうだ」鬼塚が首をかしげながら言った。
「本当ですか?」赤城と黒田が同調したように驚き、鬼塚の顔を凝視した。二人の驚きを無視して鬼塚が続けた。
「そのメールには、犯人の人数、氏名、年齢、犯行動機が克明に書かれていた。また、ご丁寧に人質監禁場所まで書かれていて、添付ファイルには部屋の平面図まで描かれていたらしい。私も初めて知らされた時には、正直信じられなかったよ」
「メールが送られてきた時は、誘拐から既に二日経っていた。そこで毛利党首は半信半疑ながら、藁にもすがる思いで、そのメールを捜査本部に知らせたそうだ」
「当初は、捜査本部でも何かのいたずらメールと思っていた。しかし、手詰まりだった捜査本部は、ダメで元々と思って過去の犯罪者リストを調べてみることにした。すると、そこに書いてある犯人の一人に前科があり、府中の刑務所を最近出所していたことがわかったそうだ」
「それからのことは、黒田君も知っている通りで、人質が無事保護されて、犯人全員が捕まった。逮捕後の犯人たちの自供によれば、ほぼメールの内容通りの犯行動機だったことも判明している」鬼塚が二人に事件の経緯を説明した。
「報道の厳しい自主規制がなされていて、一般の人は誰も事件のことを知らないはずなのに、どうして誘拐事件の事がわかったんでしょうか? それから、なぜ犯人の氏名や、ましてや犯行動機までわかったんでしょうか?」赤城が鬼塚に疑問をぶつけた。
「それは全くわからん」と苦々しい表情で鬼塚が言った。
「ところで、メールの送信者は特定できたんでしょうか? メールサーバに残ったメールの履歴から辿れる筈ですが・・・・・・」黒田も疑問を口にした。インターネットは匿名性が高いと一般的には思われているが、様々なところに利用者の使用履歴、いわゆるログが残されている。そのログを辿ることで、インターネット利用者を特定することができる。
「もちろん、事件解決後に送信者の正体を調べようとした。しかし、海外の複数のサーバを経由してメールが送られていたし、経由したサーバの使用履歴が巧妙に消去や改竄されていた。その他にもインターネットに詳しい専門家の力を借りて八方手を尽くしたが、我々の技術力ではメール送信者の特定には至らなかった」


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