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邪馬台国はどこ? #2 邪馬台国・沖縄説

 邪馬台国はどこにあるのか?。この疑問は未だに謎で、明治時代から九州説と畿内説が争っています。中々決定的な証拠が無いため、邪馬台国の所在地については今なお決着がつかない状態です。答えがわからないのを良いことに(?)、考古学の専門家から素人研究者まで、多くの人が邪馬台国について自説を開帳してきました。

 前回の記事では、邪馬台国・エジプト説について書きましたが、今回は少し日本に戻って邪馬台国・沖縄説です。邪馬台国のことを記したのは、魏志倭人伝という中国の歴史書です。この中には、朝鮮半島から出発して邪馬台国に至る経路が『南へ、陸行○日、水行△日』のように書かれています。

 魏志倭人伝の経路をそのまま行くと、九州を通り抜けて海に出てしまうので、九州説では、その○日という数字を遣り繰りして短縮したり、放射状の経路を提案したりしています。また、畿内説では、邪馬台国を奈良付近などの近畿圏内にもってくるために、”南へ” という方向の表記を”東へ”の間違いだろうと解釈しています。

 そこで、魏志倭人伝の表記どおりに素直に辿っていく仮説が提案されました。九州を抜けて更に南へ向かうと、ちょうど沖縄あたりに行き着きます。これが、邪馬台国・沖縄説の概要です。これは、琉球大学名誉教授の木村政昭さんが強く推している説で、私は読んだことが無いのですが、本まで出しています。沖縄海底遺跡研究にも造詣が深い(?)木村さんは、北谷ちゃたん町の沖合の海底に、邪馬台国の時代に相当する大きな人工物(城跡!?)が沈んでいると指摘しています。

 さすがに、エジプト説だと現実味がありませんが、沖縄説だと「そんな説もあるんだ」くらいには受け入れられます。沖縄説には考古学的な資料が無いのが最大の欠点ですが、間接的な状況証拠には「そうかも・・・?」と思わせるものがいくつかあります。魏志倭人伝には、邪馬台国の暮らしぶりを、
”冬でも生野菜が食べることが可能で、裸足で生活していた”、”民族風習として刺青いれずみを入れていた”、”寿命が80年~100年で長寿だった”などの記述があります。このような記述は、当時の沖縄についてはわかりませんが、現代の沖縄には当てはまるような気がします。現在ではその風習はありませんが、明治になって刺青が禁止されるまでは、沖縄では既婚女性が刺青を入れる風習がありました。

 邪馬台国と言ったら卑弥呼ですが、卑弥呼は魏志倭人伝の中でも”鬼道に詳しい”、つまり巫女シャーマンであったと書かれています。沖縄では今でも、ノロとよばれる琉球信仰の女神(女司祭)や、ユタとよばれる霊能者がいます。ひょっとすると、卑弥呼の子孫・・・?。


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