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短編小説 『ピンクのサウスポー』

「父さん、天国から見ててね。ようやく父さんとの約束を果たせそうだよ」

今日は、202X年のワールド・ベースボール・クラシック (WBC) の開幕戦。今回のWBC予選のPOOL Aは、日本で開催されるため、日本対チャイニーズ・タイペイの開幕試合は東京ドームで行なわれる。WBCは、メジャーリーグベースボール(MLB)機構とMLB選手会によって立ち上げられたワールド・ベースボール・クラシック・インクが主催する、世界野球ソフトボール連盟公認の野球の世界一決定戦である。

予選はAからDまでの4つのPOOLに分かれて行われるが、予選の初戦にはWBCを盛り上げるための様々なイベントが企画されていた。歌手やタレントなどの有名人による始球式も目玉の一つである。ここ東京ドームでは、最近テレビドラマでも活躍しているファッションモデルの庵野光代あんのみつよが、始球式のイベントに招かれていた。庵野光代は、名前の省略形からアンミツの愛称で親しまれている、若手のファッションリーダーである。

アンミツはパリでも活躍したファッションモデルだけあって、身長175センチの長身で、均整の取れたプロモーションをしていた。アンミツは普段から、趣味が野球観戦であることを公言しているため、野球のイベントに招かれることが多いが、始球式は初めてだった。いよいよ始球式を始めるため、アンミツがブルペンからマウンドへと歩き出した。光代は、球場の観客に両手を振りながら、声援に応えるように何度もお辞儀をして、ゆっくりとマウンドへ向かった。

「今日のアンミツさんは、鮮やかなピンクのユニフォームに身を包んで、グローブもピンクに統一していますね。解説の五所川原ごしょがわらさん、アンミツさんは初めての始球式だと伺っていますが、印象はいかがでしょうか」
WBCの初戦を担当したベテランアナウンサーが、元プロ野球選手の五所川原に感想を求めた。
「私はアンミツさんを存じ上げないので、今日初めて見るのですが、下半身が安定している印象を受けました。誤解の無いように言いますが、彼女のショートパンツ姿に見惚みとれたわけではありませんよ」

マウンド上では、WBC公式のマスコットキャラクターである地球儀みたいな野球ボールをイメージした”ワールド君”から、光代にボールが手渡された。バッターボックスには、現在メジャーリーグで活躍しているイチタロー選手が立っている。イチタロー選手は、マウンド上のアンミツ投手を見ながら、ニコやかに準備運動の素振りを始めた。

アナウンサーが、始球式の様子をアナウンスし始めた。
「さあ、いよいよ始球式の開始です。アンミツさんが野球好きであるということは聞いていますが、今日はどんな球を投げるのでしょうか。我々も興味津々ですね、五所川原さん」
始球式では、有名人がマウンドからボールを投げ、そのボールがどんな球でもバッターが空振りするのがお約束になっている。

いよいよ始球式が始まると、それまでの光代の表情が一変した。また、今まで右手に持っていたボールを、それまでグローブをはめていた左手に持ち換えた。そんな光代の行動に何かを感じたイチタローは、それまでのイベントモードから実戦モードに気持ちを切り替えた。

「事前の情報では、アンミツさんがサウスポーであることは知らされていませんが、一体どうしたことでしょう。しかもイチタロー選手は、試合の時と同じ様にバッターボックスで構えています」
「始球式はセレモニーなのに、おかしいですね。イチタロー君も一体どうしたんでしょうね」

只ならぬ雰囲気に、球場全体が包まれていた。光代がダイナミックな動作で、ワインドアップした。それからの動作は流れるようで、光代の左腕が大きな弧を描いてボールが投げ込まれた。球種はストレートで、内角高めのストライクコースだった。ボールの勢いに引き込まれ、イチタローは踏み込んで会心のスイングをした。しかし、バットは空を切り、ボールはキャッチャーミットに吸い込まれていった。

球場は、一瞬の静寂の後、ウォーという大きな歓喜の声で埋め尽くされた。アナウンサーも度肝を抜かれたようで、一瞬声が詰まったが、さすがはベテランアナウンサー、直ぐに仕事を思い出してアナウンスを続けた。

「いや~、ビックリしました。始球式なのに真剣勝負でした。しかもイチタロー選手の本気の空振りに終わりました。手元の情報では、スピードガンで測定した球速は140km/sとなっています。五所川原さんには、今の投球はどのように映りましたか」
「正直に言いますと、ノーバン投球が出来たらおんの字くらいの感覚で見ていました。しかも、球速140キロ越えにはさらに驚きました。もちろん、球速が早ければ良いという単純な話ではありませんが、プロ投手並の球速ですね」

球場全体のザワツキが収まらない中、光代はイチタローに丁寧なお辞儀をしてから、マウンドから降りて行った。球場全体から割れんばかりの拍手が起きた。

「始球式だったけど、父さんが取れなかった空振りをイチタロー選手から取ったよ」

今は亡き光代の父はプロ野球の選手で、新人時代のイチタロー選手に本塁打を打たれたことで引退を決意した。光代はその話を聞いた時から、イチタロー選手から空振りを取ることを夢見て、秘かに投球練習を続けていた。プロ野球選手の父からは、「光代は良い球投げるなぁ。お前が男だったらなぁ」とよく言われていた。

光代は元々左利きだったが、普段は右利きとして生活していた。光代が芸能関係の仕事を目指したのは、有名になれば始球式に出られるかもしれないと考えたからだ。この日から、その後に語られる『ピンクのサウスポー』伝説が始まった。


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