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科学エッセイ分冊 考古学編

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考古学関連の記事をまとめました。
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#魏志倭人伝

空想考古学・邪馬台国はココだ!#14 九州説と機内説

これまで思いっきり空想を巡らして、邪馬台国・奄美大島説を展開してきましたが、従来からの定説である邪馬台国・九州説と邪馬台国・畿内説の解説を忘れていました。両方の説を詳しく書くとトンデモなく長くなるので、ここでは概要だけに留めたいと思います。 最も古い邪馬台国比定地の提唱者は、江戸時代の儒学者・新井白石です。新井白石は自著「古史通或問」のなかで畿内の大和国説を説きましが、その後の「外国之事調書」では九州の筑後国山門郡説を唱えました。それ以降、江戸時代から現在まで学界の主流は内

空想考古学・邪馬台国はココだ!#13 魏志倭人伝と人類学

邪馬台国論争で、常に問題になるのは、魏志倭人伝に書かれた”文字情報”です。私はこの文字情報が正しいという前提の下で、この空想考古学の論理を組み立てています。しかし、多くの研究は、自分の都合の良いように文字情報の意味を曲解したり、改竄しています。邪馬台国畿内説では、”方向”を間違いだと主張していますし、邪馬台国九州説では”距離”を胡麻化しています。 手前味噌になりますが、空想考古学の『邪馬台国・奄美大島説』では魏志倭人伝の情報を一切捻じ曲げていません。例えば、魏志倭人伝に書か

空想考古学・邪馬台国はココだ!#12 長寿の国・邪馬台国

 魏志倭人伝には、『インドネシア・ジャワ島説』でも書いた”南方”をイメージさせる記述が多く出ています。例えば次の部分です。『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』   和訳は次のようになります。「倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である」。現在、”標準的な邪馬台国論争”では、邪馬台国の位置は九州または畿内です。しかし、九州がいくら暖かいと言っても、”冬でも裸足”はかなり厳しいと思います。温暖化が叫ばれている昨今でも、冬場の裸足は無理ですから、今よりも寒かったと考

空想考古学・邪馬台国はココだ!#10 卑弥呼の正体に迫る (訂正あり)

 久しぶりに邪馬台国の記事を書いてみようと思います。邪馬台国の名前を聞いたことがない人は少ないと思いますが、一応説明しておきます。邪馬台国は、2世紀~3世紀に”日本のどこか”に存在したとされる国の名称です。邪馬台国は女王・卑弥呼が治めていた国家連合で、日本のどこかにその都があったことは、”魏志倭人伝”の短い記述から間接的にわかっています。空想考古学では、『邪馬台国・奄美大島説』を採用していますが、あくまでファンタジーな”空想考古学”ですので、お許しください。  ヒミコ様の名

空想考古学・邪馬台国はココだ!#7 南方系?

 邪馬台国の場所の同定では、距離や方位ばかりが議論されますが、邪馬台国(女王国)の風俗や習慣等も見落としてはならない重要なポイントです。  まずは、入れ墨の風習です。『男子無大小 皆黥面文身 ( 男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨をする)』の記述のように、魏志倭人伝には入れ墨のことが何ヶ所にも書かれています。これは当時の歴史家が中国とは異なる風習に注目していたためです。奄美大島では、明治政府に禁止される明治の初期まで、入れ墨の風習が残っていました。ただし、入れ墨をするの

空想考古学・邪馬台国はココだ!#6 方位と距離

 邪馬台国の位置を論じる場合に問題になるのが、方位と距離です。九州説では方位は問題ありませんが、距離が合わないために「距離を恣意的に胡麻化して」います。また畿内説では、距離は辻褄が合いますが、方位が合わないので「方位を恣意的に胡麻化して」います。どちらの説も、方位と距離に問題があり、魏志倭人伝の記述と合致させるのは不可能です。  しかし、私が考える邪馬台国・奄美大島説では、距離も方位もバッチリ合致します。前回の記事で、古代中国から見て海外にある邪馬台国への出発地は「釜山付近

空想考古学・邪馬台国はココだ!#2 『魏志倭人伝』解釈の違和感

 「群盲、象を撫でる」という諺があります。この諺は、「大勢の盲人が象の体を撫でると、各々が自分の触れた部分の印象からしか象を把握できず、象の全体像についてはわからないということから、 平凡な人間には偉大な人物や大事業などの一部分に触れただけでは、正しい評価をしたり、全体を見通したりはできないということ」です。現在の邪馬台国論争は、この諺と同じ状態に陥っている気がします。  魏志倭人伝は、有名な次の一節から始まります。 『倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時

空想考古学・邪馬台国はココだ!#1 邪馬台国への道

 前回のイントロ篇(空想考古学・邪馬台国はココだ!#0)で、魏志倭人伝の疑問点を13項目ほど列挙しました。今回は、この中から切りの良い10項目をピックアップして、今後の方針を示そうと思います。   いよいよ邪馬台国へ船出するわけですが、そのためには一つの大前提があります。その大前提とは、これから示す10項目に先立って優先される、「0.魏志倭人伝に書いてあることは、全て事実として受け入れる」です。これまでの邪馬台国説では、それぞれの自説に都合の良いように、方向や距離が曲解され

邪馬台国はどこ?#4 邪馬台国・新潟説

 邪馬台国の所在地も、エジプト、沖縄、インドネシア(ジャワ島)と来て、今回はやっと本州ですが、本命の近畿地方ではなく新潟です。この説は、前にも紹介した『珍説・奇説の邪馬台国』岩田一平著(講談社)に詳しく載っています。  新潟県・栃尾市に邪馬台国があったと主張しているのは、栃尾市に住む桐生源一さんです。桐生さんは栃尾市で生まれましたが、栃尾市は平成の大合併により、2006年に長岡市に編入されて今はありません。旧栃尾市は、織物の町として知られていました。歴史は古く、第11代・垂

空想考古学・邪馬台国はココだ!#0 魏志倭人伝の問題点

 魏志倭人伝を巡る議論の中では、魏志倭人伝の内容に関する多くの疑問が呈されています。それらの疑問点をまとめると、以下のようになります。これは、『「新説邪馬台国の謎」 殺人事件』(荒巻義雄 著)の後書き(321p)に書かれています。以下の13項目は、50冊以上の邪馬台国の関連本を読んだ荒巻さんがまとめたものです。 1.韓国南岸に比定されている狗邪韓国がなぜ、「倭人伝」では倭国北岸と書かれているのか。 2.帯方郡から狗邪韓国まで七千里とある謎 3.最大の謎として、「倭人伝」の記

邪馬台国はどこ? (番外編) 魏志倭人伝がマイブーム

『倭人在帶方東南大海之中・・・』で始まる魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻の烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称です。烏丸・鮮卑・東夷というのは、当時の中国から見た周辺諸国の野蛮人たちのことで、ここではその当時、日本列島にいたと考えられている民族・倭人の習俗や地理などが書かれています。『三国志』は、西晋の陳寿が3世紀末に書いたと言われています。 当時の倭には、女王の都である邪馬台国(邪馬壹国)を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記され

邪馬台国はどこ? #3 インドネシア・ジャワ島説

 邪馬台国の場所に関する記事を以前に2つほど書きました。最初はエジプト説、次は沖縄説です。どちらも安易には信じ難い説ですが、まだまだ珍説・奇説はあります。今回紹介するのは、邪馬台国・インドネシア説です。  邪馬台国・インドネシア説を唱えたのは、内田吟風さんです。この説は、下記にリンクを張った『珍説・奇説の邪馬台国』(岩田一平著)で紹介されています。内田さんは、明治40(1907)年生まれで、京都帝国大学史学科を卒業し、神戸大学、佛教大学、龍谷大学で教授を歴任し、神戸大学の名

邪馬台国はどこ? #2 邪馬台国・沖縄説

 邪馬台国はどこにあるのか?。この疑問は未だに謎で、明治時代から九州説と畿内説が争っています。中々決定的な証拠が無いため、邪馬台国の所在地については今なお決着がつかない状態です。答えがわからないのを良いことに(?)、考古学の専門家から素人研究者まで、多くの人が邪馬台国について自説を開帳してきました。  前回の記事では、邪馬台国・エジプト説について書きましたが、今回は少し日本に戻って邪馬台国・沖縄説です。邪馬台国のことを記したのは、魏志倭人伝という中国の歴史書です。この中には